日本の人たちの多くは、特に最初に部屋に閉じこもらざるを得なかった芸術分野で生きる人は、同じ様に、歌い、演じ、楽器を奏でていたと思ってたヨーロッパやアメリカの人たちの今を見て、「あぁ、私達のやっていた音楽は、どうやら彼らとは違うのかもしれない」という事実を目の当たりにしている。
世界各国の芸術分野で働く人々への給付、補償についてこちらに大まかにまとめてあった。芸術、というと政治家の人々にとっては現実離れしているのだろうか。日本の”何も具体的な事が決まってない”という事ほど現実離れしている、ということはないだろうか。
フランスで歌を勉強している人と情報交換していたら、他業種においても休業のための補償はしっかりしていて、今はウィルスの収束を部屋で待つことができる。私は、音楽の仕事はもう既に4月は全てキャンセルだし、5月は連絡が来ないだけで、きっとないだろう。(あってもどうだろう)その証拠にまだ楽譜は手元にないし、滅多に部屋を出ることはない。そんな中、フランスの話を聞いていたらだいぶ羨ましくなってきて、PCの画面の中で一度訪れことのあるパリを旅することにした。
2003年の2月の末、それまで3週間イタリアを回った後、ローマから夜行電車に乗りパリに着いた。東の端のベルシー駅に朝方に着いて、日本から持ってきていた”地球の歩き方”で目星をつけた安宿を当たった。
直接宿へ出向き、歩く間に覚えた本の巻末にあるフランス語で今日の部屋があるか尋ねる。運良く二軒目で宿が見つかり、帰国まで同じベッドにいられるのも良かった。
記憶にある中では、すごく安くて、大きくはないがベッドはあるし、ちゃんとシャワーはお湯は出て、寒さはしのげる宿だった。Google earthで辿って見ようとカーソルを動かしていくが、私がかつていた場所ははっきりしない。動いていく景色(写真)はごく最近のものだし、訪れた季節とは違っている。パンテオンの裏にある何度か通った「白い貴婦人」という名のレコード屋からいくつか角を曲がり、一階の賑わう料理屋を横目に少々不安な古い鍵を差し込んで階段を上り、一日を終えたのだ。
次の日から、緩やかな坂を下って大きな通りまで出て、朝には既に行列ができるパン屋で1日の大方の食事をそこで買って、美術館など回らない時はセーヌ川に向けて足をたらしていた。今と同じく、過ごしていく全ての時間が無限だった。
旅をしている時は時間の一粒が大きくて、いろいろなものと出会っても、たくさんの場所へ訪れても、その中に自由に詰め込めることができる。今、私達の隣には死が座っているかもしれないが、この何もない時間を生きるには、あの頃の時間の粒の大きさが思い出される。今は世界を部屋に詰め込んで、窓から見える空を日替わりにどこかの土地につなげて、傍らにある本の言葉を街の賑わいに変えて、静かで、大きな時間に変えていってはどうだろうか。
旅だなんて、私は夢を見ていて、現実を見ていないのだろうか。
ヨーロッパ、アメリカが、その国民に対して連帯を示しているのに、感染症対策の専門家、医療関係者の努力で回避されているだけの日本の人の危機に政治家だけが私達に”協力”を求めて”頑張りましょう”という方が夢の世界なのではないか。連帯を示すというのは、生きていく事にどれだけ相手が力を注いでくれるかを尊重する事に尽きるだろう。
旅に出よう。どうしようもなく狭苦しい世界から、想像力を供にして。
本当に外へ出ていって、街を闊歩するというのは言うまでもなく想像力の欠如である。