幕間劇豊かに

この週末、5月21日(土)にある、《ラ・ペッレグリーナ》のインテルメーディオの稽古が大詰めを迎えています。2年前の年末に、モンテヴェルディの《聖母マリアの夕べの祈り》の収録で初めて参加した、エクスノーヴォプリンチピ・ヴェネツィアーニの皆様と一緒に演奏します。

イタリア語の原題は、gli intermedi de La Pellegrina per le nozze di Ferdinando de’Medici e di Christiane Lorena

gli intermedi とは幕間劇を意味するintermedioの複数形で、ひとつの劇のそれぞれの幕間に演奏された曲のことです。当時、最高の芸術で、娯楽である演劇の余興として楽しまれていましたが、やがて演劇の人気を凌ぐ人気となり、物語を持ち多彩な音楽を取り込み、現在のオペラの型へと繋がっていくのです。

今回のインテルメディオについてEXNOVOのサイトで”ノボくん”が答えているので読んでいただければと思います。

ノボくんが答える《ラ・ペッレグリーナ》のインテルメディオF&A

先日、Twitterのスペースで行われた斉藤基史氏のEXNOVO福島康晴氏へのインタヴューはとても興味深かったです。斉藤さんのトップ画面から再生できます。

僕がイタリアを訪れたのは、もう随分前で、Firenzeの街を歩いたのは20年も前になる。(この月日に自分でも驚きを隠せない。。。)

1589年の春に執り行われたトスカーナ大公とフランス王の孫娘との婚姻の祝典の中で催された喜劇《ラ・ペッレグリーナ》とその幕間音楽があったピッティ宮Piazza Pittiから溢れた喜び、賑わいが、あの街の中にあったのか、と僕の昔々の記憶とひとつの線上に置いてみる。

壮大な神話の世界を再現した舞台、舞台装置、衣装の製作する為だけでもFirenzeにひしめいていただろう工房は大忙しだったに違いない。祝いの品や、装飾の為、それに従事する人達の為の物売り、かつての、華やいだ、煌びやかなメディチ家の時代を街から掘り起こしていたでしょう。

ルネッサンスの事を書いた本などは読んでいましたが、今こうやって当時書かれた音楽に奉仕していると、音の中にいろんな景色が見えてくるようです。歌だけでは靄がかかったようでしたが、lira da braccio,lirone,viola da gamba,cornetto…様々な楽器が入ると色彩豊かなものとなります。

バッハやヘンデルもいいですけど,イタリアの音楽が描くその景色は本当に特別ですよ。訪れた人、憧れる人はその気持ちは分かっていただけると思います。そういう音楽に関わることができて、今とても幸せです。

ぜひお裾分けしたいのでご来場お待ちしています。

新神戸での公演もあります

Calendimaggio

プッチーニのオペラ、ジャンニ・スキッキGianni Schicchi(1918)の中で、結婚を誓い合うラウレッタとリヌッチョは、お互いの家族の諍いで結婚できない自分達の境遇を嘆く。
Non ci sposeremo per il Calendimaggio!!
(カレンディマッジョに結婚できない!)

Calendimaggioとは、月の初めcalendaeと5月を意味するmaggioが示す通り、5月になると春の到来をお祝いします。今も有名なのはアッシジかな?オペラの舞台のフィレンツェ(トスカーナ)周辺でも大きな祭りがあったようで、現代ではフィレンツェ五月音楽祭は街のシンボルでしょう。
5月の特別な華やかさは、その季節を見たことがない僕にとっても特別に思える程、ヨーロッパのどこの国、どの時代でも様々な文化で窺い知れる。

僕の見た、今年のCalendimaggio、つまり5月の初めは美しかった。

東京の高尾にある霊園まで自転車で行ってきました。そこに至るまでの街路樹も遠くに見える山々も新緑で彩られ、高尾から霊園までの林を抜ける道ですら、明るく、透明度の高い緑の光と、山吹や菜の花の黄色が眩しい。

シャンソン歌手の髙木椋太さんが亡くなって、三回忌を迎えた。COVID-19 に倒れたことを数日経って知った。この頃、この病気で亡くなった人達は世界共通で、友人達も、いや家族でさえも集うことができず、2年経った今でもその人達の影をどこかで見てしまうのではないかしら。会えなくなった人には、いつでも同じような気持ちになるのだけれど、寂しさが野晒しにされたようでね。いけないのです。

一時期流れた誰かの歌で、「そこに私はいません」と聞きますが、そうとは分かっていても、既に誰か参った後の、色とりどりの花に飾られた墓の前に立つ。
墓石を洗った水が見せる風、豊満な緑色の香り、朗らかな鶯たちの歌。まだ残る菫の紫をよけて踏む、音のない足どり。

僕の特別な5月は、それは永遠でしょう。
誰もが讃えたように、こんなにも美しいのだから。

新春コンサート終演!

桐生市でのコンサートを終えました。13日のコンサートは、本来なら2月19日(土)にあるはずだったのが、緊急事態宣言やまん延防止等重点措置による時勢を鑑みて延期になったのでした。
というのも、桐生市で活動されている合唱団とオペラ歌手との交流というコンサートを支える大きな柱が、その当時は支えられないであろうという事でした。コンサートをする為にやはり集まって練習をしなくてはならないし、ソリストとして招かれている僕達も”移動”が”安全”かどうか、当時(わずか二カ月前ですけれど)は判断が難しかったです。企画、運営をされた深津素子さんの判断は的確で、コンサートの延期に始まるスケジュール設定など大変なご苦労があったと思います。

前置きが長くなりましたが、ここは大事なところでしたので、はい。
困難を乗り越えてたどり着いたこの日を与えてくれたことに感謝です。

美喜仁桐生文化会館。大小ホールを備えた充実の施設です。
当初、小ホールでの公演でしたが、大ホールに変更!これはうれしい変更!

前半のプログラムはソリストたちと合唱団で《美しく青きドナウ》を歌い開幕。
オペラやクラシックの名曲集を藤永和望さん、深津素子さん、木下泰子さん、薮内俊弥さんと僕で歌いました。僕はリクエストコーナーでカンツオーネ・ナポレターナを2曲と、ドン・カルロの中の二重唱《我らの胸に友情を》を歌いました。
後半は桐生市施行100周年記念ステージとして、市歌や桐生市在住の詩人、星野富弘氏の詩による合唱曲などを。そして合唱団の愛唱歌集ステージなど盛りだくさんの内容でした。

本来コンサートを予定していた2月に合唱指導に僕達が加わり、その時はホールスタッフ立ち合いの元、マスク着用、充分に距離を取った位置での練習など神経を使うことは多かったですが、そういった事を乗り越えただけの一体感が本番当日にはあったと思います。ソリストは全員旧知の中でしたので、仲が良すぎて全員の写真を撮っていない。。。。といっても舞台袖で会う以外は楽屋にいたからしょうがないです。

多くの人が感じているであろう昨今の不自由。それは決して乗り越えられないものではなく、それは考えていた姿ではなかったかもしれないけれど、今、立っている世界はそこから解放された、新しい世界なんだと思う。それを感じる事ができるのであれば。
新しい世界に自分自身を導くためには、僕が進む事、そして誰かが歩んでいる事を感じる事ではないか。音楽をするということは、僕にとってそのための行為なんだと感じる1日となりました。

「手渡し」ではなかったけど、いただいた大きな花束。

Macbethを観ましたという話

随分久しぶりに映画館に行きました。

マクベス。デンゼル・ワシントンにフランシス・マクドーマンドという顔合わせ、監督がジョエル・コーエンというのに俄然惹かれたわけですが、昨年、ムーティと一緒に勉強した(←大袈裟)ヴェルディの作曲したオペラの“超“有名なシェークスピアの戯曲ということは僕にとっては大きな理由です。

全編美しいグラデーションの白黒で撮られていて、この映画の場合グレースケールというんでしょうか(ちゃんと調べてないですけど)、今の時代にこの手法を取っているというのはただのノスタルジーではない、技法としてより手の混んでいるものを詰め込んでいることでしょう。画面のアスペクト比も、BBCが残したシェークスピア全集をモチーフにしているのでしょうか。美しさというのには作り手の果てしない吟味が伴っているのは確実にあるでしょう。

映画を観終わって、戯曲を読み終わった時も思いましたが、ヴェルディは随分大変な思いをしてオペラにしたなぁ、と感じます。戯曲から映画でする時もそうでしょうが、何を残してどう描くか、オペラとして上演する効果的な方法を取っていくのでしょう。それに見合ったものが作品化されて、上演されて、なおかつ残っていくのだろうと思います。同じくシェークスピアのリア王もヴェルディは作曲したいと考えていたそうですが、完成していたらどんなものになっていたのでしょうか。

そう、イタリアはミラノ・スカラ座の今シーズンのオープニングはヴェルディのマクベスが上演されました。指揮はリッカルド・シャイー、演出はダヴィド・リヴァモア、マクベスにルーカ・サルシ、マクベス夫人にアンナ・ネトレプコなどスカラ座でヴェルディを、マクベスを上演することには隙のない面々。演出は見た目ほど尖っていないのもあって後々映像で観ても面白いと思います。日本ではダイレクトで観られませんでしたが(観られました?)今はYouTubeで探すと観られると思います。僕は日本時間の夜中にradioRaiで聴きましたが、ラジオはいいですね。再認識。

映画の話に戻りますが、映画は映画館がある意味そのなんと言いますか、ライブといいますかチケットを買って、それは別にネットでもいいんですが、扉が開かれた、椅子の並ぶ、スクリーンのある劇場で観るというのはそれが同じものを同じ劇場で観たからといって同じ体験ではないと思います。映画の中でどこかに引き戻される感覚というのはライブにつきもののものでちょっと違う話になりますけど、特別なものであると思っています。それにお金を払うというか。今はコロナ禍という事もあって緊張感を持って観ることになりますが、劇場芸術にそういった緊張を少しでも和らぐ日がやって来る事をひたすらに願っています。

と言っておいて、この新しいマクベスは映画を観てから知ったのですが、、、、Apple TVで配信されているのでいつでも観られる!なんと!あぁ、僕が先に言った事はどうなるんでしょう、それは観てのお楽しみ。そういう意味でも一捻りあって作ってあるでしょうか。

2022.01.11

今日はなんでも縁起の良い日だそうで、一粒万倍日という、まぁ季節と日に振り分けられている干支とかで1年に60日あるその日と、天赦日という、季節の中で1日あるその日とが重なる日だそうです。

なんだかブログを書く気になれず、しばらく置いていてしまいました。
縁起がいいなら乗っかるのも悪くはなかろう、気持ちを新たに書初めといたします。

昨年の秋頃から世界的に良くなってきたのか、と思いましたが、中々そういうわけにもいかず、頓珍漢なえらい人たちによって世界の中でも日本はどうなっていくのか、音楽の世界に希望をもちながらも、あちらの方が(全く他人事ではないのですけど)心配になります。

1年の欠き損ねた「予定」を更新しつつ、また来るであろう日のお知らせもしたいです。

マエストロ・ムーティはやって来た

4月にマエストロ・ムーティはやって来た。
8月のいまから考えると体感としてはとても時間が経った様に感じるが、演奏から僅かばかり間を置いて、先の東京・春・音楽祭でのコンサートが有料公開になっているのでお知らせです。
↓配信サイトはこちらから
イタリア・オペラ・アカデミー in Tokyo
リッカルド・ムーティ指揮《マクベス》

2006年から東京・春・音楽祭で度々指揮を振っているイタリア人指揮者、リッカルド・ムーティは近年非常に力を注いでいるのが若い音楽家に向けた教育だ。
元は0rchestra giovanile Luigi Cherubiniが始まりだったが、イタリア・オペラとはどうあるべきなのか、マエストロの哲学が詰め込まれたプログラムをラヴェンナを始め世界各地で行っている。東京では2019年《リゴレット》から始まり、昨年はCOVID-19の影響で中止になったが本年《マクベス》が行われた。


今年だってまだコロナ禍の最中であるのだ。昨年末から行われていた外国人の入国規制が音楽祭の多くのプログラムの開催の障壁となった。イタリア・オペラ・アカデミーもマエストロ始め受講生である若い指揮者たち、イタリア人歌手たちの来日が叶うかどうか直前まで難しかったようだ。同じ時期に演奏家でも来日できた人、そうでない人と分かれた事もあり今回の入国にはいくつか意見があったが、そのドキュメントは春祭自身が語っているのでどうか読んでいただきたい。
https://www.tokyo-harusai.com/harusai_journal/2021_diary19/

イタリア・オペラ・アカデミーの指揮者達、オーケストラ、ソリスト、合唱、スタッフがマエストロ・ムーティと2週間、ヴェルディが作曲したマクベスをどう作ったのか、緊急事態宣言下でもあったし、使用客席の上限もあったので今回の配信はより多くの人に“何をやったのか“観てもらえるだろう。

なお、今年行わなれた東京・春・音楽祭のプログラムは以下のサイトから全てではないものの観る事ができる。来年の春こそは多くの人と音楽を分かち合えることを願って。
https://www.youtube.com/watch?v=QhOPIFlqijU

セントレオナール

たくましく純潔な青年セントレオナールは、森の中で恐ろしい大蛇と戦いの末、傷つき、倒れた。森の精たちは悲しみ、彼の流した血が染み込んだ大地にスズランを咲かせた。

私の机の上には、清らかに咲くスズランが挿してある。

大切な友人の夫君が亡くなった。素晴らしい音楽家、テノール歌手として多くの舞台に立ち、仲間にも聴衆にも愛された人。covid-19の収束を願い、その次の世界のために向かう生活を送っていた。心臓発作だった。志半ばであった彼の思いと、残された家族を思うと、悲しみは言葉にならない。

スズランは谷に咲く。セントレオナールの血が流れ込んだからだ。
悲しみの底には美しさが、清らかさが集まる。人の思いがその場所に救いを求めるからなのか。

音楽と共に生き、多くの人に愛された二塚直紀さんのために祈りを捧げる。

部屋からの眺め、旅

日本の人たちの多くは、特に最初に部屋に閉じこもらざるを得なかった芸術分野で生きる人は、同じ様に、歌い、演じ、楽器を奏でていたと思ってたヨーロッパやアメリカの人たちの今を見て、「あぁ、私達のやっていた音楽は、どうやら彼らとは違うのかもしれない」という事実を目の当たりにしている。

世界各国の芸術分野で働く人々への給付、補償についてこちらに大まかにまとめてあった。芸術、というと政治家の人々にとっては現実離れしているのだろうか。日本の”何も具体的な事が決まってない”という事ほど現実離れしている、ということはないだろうか。

フランスで歌を勉強している人と情報交換していたら、他業種においても休業のための補償はしっかりしていて、今はウィルスの収束を部屋で待つことができる。私は、音楽の仕事はもう既に4月は全てキャンセルだし、5月は連絡が来ないだけで、きっとないだろう。(あってもどうだろう)その証拠にまだ楽譜は手元にないし、滅多に部屋を出ることはない。そんな中、フランスの話を聞いていたらだいぶ羨ましくなってきて、PCの画面の中で一度訪れことのあるパリを旅することにした。


2003年の2月の末、それまで3週間イタリアを回った後、ローマから夜行電車に乗りパリに着いた。東の端のベルシー駅に朝方に着いて、日本から持ってきていた”地球の歩き方”で目星をつけた安宿を当たった。

直接宿へ出向き、歩く間に覚えた本の巻末にあるフランス語で今日の部屋があるか尋ねる。運良く二軒目で宿が見つかり、帰国まで同じベッドにいられるのも良かった。
記憶にある中では、すごく安くて、大きくはないがベッドはあるし、ちゃんとシャワーはお湯は出て、寒さはしのげる宿だった。Google earthで辿って見ようとカーソルを動かしていくが、私がかつていた場所ははっきりしない。動いていく景色(写真)はごく最近のものだし、訪れた季節とは違っている。パンテオンの裏にある何度か通った「白い貴婦人」という名のレコード屋からいくつか角を曲がり、一階の賑わう料理屋を横目に少々不安な古い鍵を差し込んで階段を上り、一日を終えたのだ。

次の日から、緩やかな坂を下って大きな通りまで出て、朝には既に行列ができるパン屋で1日の大方の食事をそこで買って、美術館など回らない時はセーヌ川に向けて足をたらしていた。今と同じく、過ごしていく全ての時間が無限だった。

旅をしている時は時間の一粒が大きくて、いろいろなものと出会っても、たくさんの場所へ訪れても、その中に自由に詰め込めることができる。今、私達の隣には死が座っているかもしれないが、この何もない時間を生きるには、あの頃の時間の粒の大きさが思い出される。今は世界を部屋に詰め込んで、窓から見える空を日替わりにどこかの土地につなげて、傍らにある本の言葉を街の賑わいに変えて、静かで、大きな時間に変えていってはどうだろうか。

旅だなんて、私は夢を見ていて、現実を見ていないのだろうか。
ヨーロッパ、アメリカが、その国民に対して連帯を示しているのに、感染症対策の専門家、医療関係者の努力で回避されているだけの日本の人の危機に政治家だけが私達に”協力”を求めて”頑張りましょう”という方が夢の世界なのではないか。連帯を示すというのは、生きていく事にどれだけ相手が力を注いでくれるかを尊重する事に尽きるだろう。

旅に出よう。どうしようもなく狭苦しい世界から、想像力を供にして。
本当に外へ出ていって、街を闊歩するというのは言うまでもなく想像力の欠如である。

過ぎた日に寄せて

びわ湖ホールの公演が終わり、その日の内に新幹線に乗り東京へ戻った。
それからは、いや本当はそれ以前からだが、covid19 によって日毎に状況が変化し、私の周りの職業としての音楽の世界は元より、ほとんどすべての人の生活の明日が見えない状態だ。
中国での感染流行から瞬きするたびに入る新しい情報は、静かな波が足元の浜の砂をそぎ落としていくようだった。

公演は、ご記憶の方も多いかと思われるがとても反響が多く、ネットでの配信はオペラに縁のない人にも、その存在を知ってもらえた良い機会だったと思う。配信までの経緯はたくさんの記事にまとめられているので、「びわ湖ホール」や併せて「リング」と検索してもらうと良い。

https://ontomo-mag.com/article/report/biwako-ring-2020-03/?fbclid=IwAR0_DLZzxf-AXj-MsHUW5GoGUxgOdxjjSXZ1q4960pMoE4mpcGXVvpZiZM8

東京での稽古から不安は合唱団の仲間内で話されて、京都への新幹線に乗るのも少し勇気が必要だった。不安とかその時抱いたそういうものは、その先にまだ公演という目標があるからだったのだろう。帰りの新幹線に乗る時の不安とは全く意味合いは違った、と振り返ると思う。

ホールで稽古をしていく中で、東京にいる仲間たちの音楽が奪われていく知らせを耳にすると、自分たちのこの状況は良いのだろうが、何故続いていくのだろうというかという漫然とした疑問を楽屋で話し合った。不安が滲んでぼやけてしまった意志は、舞台にいると忘れてしまうので、毎日その繰り返しだった。時折洗面所で会ったホール側のスタッフが時間をかけて手を洗い、顔も洗っている姿を見かけると、はっと我に返って、今は舞台をつとめるんだ、と思った。

公演に関する道筋が定まって、この公演に関する人間は、もちろん自分も含めて、横文字で言うと何かもっともらしいものがあるかもしれないが、一種の悦に入っていて、普段なら起らないだろうトラブルは「悦」によってより小さなものになった。小さなものならそれでいいのだけれど。公演が終わっても、観た人からの応援の言葉に何か覆われてしまったように思う。

我々は成し遂げた、という満足は果たして正しいのか。それはもう過去の事だから再び選択する事は出来ないし、舞台を作る一片として、再び同じ状況に立てば同じように選択するだろう。
だが、今この時期でも無観客での演奏の成功の喜びがあるのは、・移動をして・集まるという、かなりのリスクで、その方法が取られるのは先陣を切って行った神々の黄昏の舞台の「成功」があったからではないか、と思ってしまう。
こういうのはただの思い上がりなのだろう。
三月までに書いておきたかった。遅くなった。

音楽が、また再び我々にその手段を与えてくれるのなら、共に喜び、その音を愛そう。
その日まで、優しさと慈しみを持って命を尊ぼう。

びわ湖ホール《神々の黄昏》

滋賀県大津市に滞在している、と書き出すブログを数日放置していると、新型コロナウィルス感染症(covid19)の影響であっという間に状況が変わっていき、2月28日に中止が決まった。
同時にチケットの払い戻し等が始まり、しかしながら稽古日程を消費していく日々が続いていたが、無観客の演奏、YouTubeでのストリーミング配信等の新しい劇場方針が発表された。
詳細はこちら (YouTubeのURLもサイト内にあるのでご覧ください。)

この公演は、三年前から続くヴァーグナー作曲《ニーベルングの指輪》序夜:ラインの黄金、第一夜:ヴァルキューレ、第二夜:ジークフリートに続く最終作、第三夜として位置けられており、舞台芸術の最高峰の作品、《指輪》四作を公演するというのはびわ湖ホールとしての悲願でもあった。公演チケットは発売から間もなく完売となり、この公演の期待が相当に高く、関西圏を中心としたファンは待ち望んでいたことと思う。
日本政府の自粛要請を受け、多くの公共ホール、興行者が公演の中止、延期を選択し、人々の生活が制限されていく中、劇場はギリギリまで《神々》の公演をすること目指していた。

選択や決定というものには常に批判と共にあり、どういう結果でもそれが良かったのかどうかというのは胸の内に残る。しかしながら公演に携わる者としてこの機会を得たことに感謝である。