2026-1

2026年の最初の仕事は、読売日本交響楽団との演奏会でした。

プフィッツナー《ドイツ精神について》/ Pfitzner《von deutscher Seele》

大好きな指揮者、セバステイアン・ヴァイグレと演奏ができるという事に胸が高鳴りました。日本のオーケストラの首席指揮者でいてくれてありがとうございます。僕はオペラでご一緒した事がありましたが、演奏会のプログラムでは初めてで、しかも日本で初めて演奏されるこの曲、というのがまた記憶に深く残るものでした。

日本初演、というのはそれまで機会のなかったという事で、今までに見れば録音は何種類か出ていて、どれも良いものでした。作曲者の生きた時代と政治的姿勢故なのか、恐ろしく難しいソリストのアンサンブル故なのか、これまで日本で演奏されなかった事が不思議なくらい、素晴らしい曲でした。その響きは体勢に利用されてしまう、とか想起させるようなものがあるのでしょうか。読響のプログラムに寄せた長木誠司氏の言葉を借りれば、「プフィッツナーにとっての「ドイツ精神」とは本来政治的なものではなく、ときに瞑想的で、ときに高揚し、厳粛で、甘美なほどに力強く、英雄的なものに過ぎなかったが、時代はそれを危ぶむことも、称揚することもできたのである。」

「評価が定まらない」というものに作曲者自身が態度を表明できるほど時間が許されたわけでないようだし、純真なロマン的讃美が体勢に好まれた態度と離れていたとしても、どうしても受け入れられない、音楽的でない評価がそこには存在するのだろう。

日本においてもきっとそのように音楽的価値から遠ざけられた作品が多くあるのかもしれない。それらを発掘し、演奏に純化していくのは演奏家の仕事だし、間違ったアピールをしてはいけないのもまた今を生きる演奏家の仕事であるのだと思う。クラシック音楽は“利用”されるほど多くの人に浸透した文化なのか、そこに疑念は抱かずとも、いち演奏家としては毅然としていなくてはいけない。以前、◯響にもっと政府寄りの仕事をするべきと言った政治家がいたけれど、素晴らしい集団の今を見ればそれを、寄せつけない音楽的な高みというのは音楽家のあるべき姿なのだと思っています。

さて、僕の2026年はどのような音楽が待っているのでしょうか。とても楽しみです。

学生の時以来の演奏の機会となる曲が4月までで2曲もあります。(僕の学生時代はなんとゆたかだったのだろう!)新しいものを見つけられるように、新しい勉強をしていきたいし、1人の人間として精進して舞台に臨みたいです。

《第九》について

12月の後半は、読売日本交響楽団のベートーヴェン交響曲第9番の演奏会シリーズに新国立劇場合唱団の一員として参加しました。

同じ曲を同じオーケストラ、指揮者、ソリストで7公演というのは僕は初めて演奏しました。今年は久しぶりに4楽章の途中から入場。ある指揮者が、初演された頃にはこういう”演出”もやっていたという話をしていましたが、本当なのかな?

大阪のフェスティバルホールでの公演もありました

僕の古い話になりますが、プロのオーケストラの演奏会(学外で)に初めて参加したのは大学3年生で、その時のオーケストラが読響でした。大学の室内合唱というクラスが主体で、ハイドンのオラトリオ《四季》。指揮者のジェフリー・テイトの姿も、ソリスト達の素晴らしい演奏も鮮烈でした。オーケストラの重厚な響きに、心も身体も大きく揺さぶられた記憶は今でも肌に残っています。

10年くらい前までは学生の合唱と在京オーケストラとの共演はどこも積極的にあったと思いますが、《第九》の演奏会や定期公演などで学生がプロと演奏する機会はずいぶん減ってしまったのではないでしょうか。学生の数が少なくなったのは大きな要因だと思いますが、大学連合みたいな形で、多くの若い人が良い演奏を経験するということがあればいいだろうなと思います。

そう、今回は第九の話でした。

今回の指揮者はマキシム・パスカル。僕は《金閣寺》以来6年ぶりです。とても印象深い人だったので、今回またご一緒できて良かった。20世紀の音楽をあんなにも軽々と演奏してみせる人が、いわゆるオーケストラの古典作品をどのように指揮するのか興味があったし、読響とはこの曲を歌ったことがなかったので、とても良い機会でした。

11月のミサ・ソレムニスを演奏したことは前の記事で書きました。ベートーヴェンの最後の作品としても知られている《第九》は、《ミサ・ソレムニス》が初めて演奏された次の年、1824年に一緒に演奏されました。作曲期間は別として、同時期に初演された2つの作品を、あまり時間を置かずに演奏した事はとても有意義でした。《ミサ・ソレムニス》では山田和樹さんの意図でオーケストラ練習から合唱が参加して音楽を作ることができたし、《第九》では初日のみ第1楽章から舞台にいられたので、マエストロ・パスカルとオーケストラが作りたかったものを多く感じられました。

公演をいくつか終えた後に、SNSで見つけた藤沢市民文化会館での《第九》についての園田隆一郎さんのインタヴューをとても興味深く読みました。

演奏というのは、得てして”そうであろうとする”ことに向かっていくことがあると感じることがあります。演奏するある作品について言えば、そうであろうとする。一見、創造的な演奏という行為も、繰り返すことでたわみが出るというか、都合の良いところに収まろうとする。それはとても自然なことかもしれなくて、いわゆる演奏者の”味”と済まされる事もあるのではないか。

うーん、言葉にするのがなかなかうまくいきません。

もしまたこの曲を演奏することができるなら、作曲者の音の言葉を改めて読み解いて、演奏することに向かっていけたらと思います。

ベートーヴェン《第九》始まる

NHK交響楽団との第九が12/21から始まった。合唱の一員として音楽が出来る事を幸せに感じ、この環境に感謝するばかりである。

今年の指揮者はオーストラリア出身のシモーネ・ヤングSimone Youngで、ソプラノはスウェーデン出身のマリア・ベングトソンMaria Bengtsson、アルトは日本の清水華澄、テノールはオーストリア出身のニコライ・シコフNicolai Schukoff、バスはベネズエラ出身のルカ・ピサローニLuca Pisaroniと、多国籍な顔ぶれであることをプログラムを見て知った。

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ミサ・ソレムニス

山田和樹指揮、横浜シンフォニエッタと東京混声合唱団によるベートーヴェン作曲《ミサ・ソレムニス》に参加していました。(11/24公演)

ソリストは田崎尚美さん、小泉詠子さん、小堀勇介さん、加藤宏隆さんと素晴らしい面々で、狛江市にあるエコルマホール開館30周年記念としての演奏でした。マエストロ山田とエコルマホールの鈴木さんとの長い、親密な関係から生まれた周年記念の演奏会を大曲で飾ることになりました。個人的にはいろいろありましたが、良い演奏として満員の客席に響いたとのこと。その一つとなれた事に感謝します。

ベートーヴェンのミサ・ソレムニスは1時間を超える大作で(今回は1時間半くらい!) 自らが「最高傑作」と言葉を残すほど、たくさんの研究を重ねてその音楽に反映されている。今回の音楽稽古の冒頭で、山田さんから「これはオラトリオなんですよ!」と一言あって、それはベートーヴェンが残している言葉でもあり、演奏の記録としては初演はオラトリオとして演奏され、また別の機会には《ミサ》の翌年に書き上げた《第九》と抱き合わせて演奏をしたりと作曲者の熱の入りようがわかる。初演された時代、教会の典礼で演奏する事と、同じ曲が他の場で演奏される事がどのくらいの違いがあるのか、僕にはわからないのだけれど、この大曲の存在が後々の音楽に与えた影響というものは本当に大きいということが今回知ることができた。

僕はどうやら20年前にこの曲を歌っているらしいのだけど、肝心な音楽を分厚くハケで塗って頭からすっかり消し去っていて、(ついぞ戻ってくる事はありませんでした) 今年の東京春音楽祭で演奏された《ミサ・ソレムニス》を聴きにいったのが僕の最新の記憶です。それはとても良い演奏だったので、いつかこの曲を歌う機会があったらいいな、と思っていたら東混からお話が来た次第。ルクセンブルク以来1年ぶりの山田君の指揮でもあるし、またとない機会でありました。

横浜シンフォニエッタの前身は、山田さんが大学生の頃に同世代の学生たちと組んだトマトフィルハーモニー管弦楽団です。僕は彼とは学年が一つしか違わないので、メンバーの中には同級生や、大学の校内で見かけた事があるとか、学生の頃からの活躍を横目で見ていた人達が多く演奏していたので、自分がいつの時代に演奏しているんだろうと不思議な気分になる時もありました。

最後のリハーサル中だったかな、ヴァイオリン・ソロを演奏した渡辺さんに、「僕は46年生きてきて本当に良かった。」と山田さんが声をかけた。きっとその場にいた人は同じように感じたのではないだろうか。僕も同じ気持ちだったな。

写真は終演後、楽屋から見た景色。きれいでした。

 《ナターシャ》を観る

新国立劇場で《ナターシャ》を観た。日本の劇場から劇場作品を発信するプロジェクトは《紫苑物語》(2019)《アルマゲドンの夢》(2020)に続き今回で3作目だったかと思う。僕は音楽をしていて舞台にも立つのだけど、今回初めて聴きに行くことにした。熱心なオペラファンでない事がバレてしまうが(同時に舞台に立つチャンスがなかったことも)率直な感想として、観に行って良かったと思える作品だった。

芸術監督の大野和士氏がこの一連の委嘱作品の発起人で、この《ナターシャ》も,作曲の細川俊夫氏の最良の理解者という関係があって、彼のオペラ作品の日本での“世界初演“になったというのを彼のインタヴューで知った。そう、僕は観るにあたってほとんど予備知識がなかった。オペラの物語は頭に入れていったが、大野↔︎細川↔︎多和田という長年に渡る濃密な人間関係が、この世界初演に結びついたことくらいは知っていて良かっただろうな。

少し前、どの新聞だったか、多和田葉子氏の著作の書評とインタヴューがあって、僕はそれを目にして小説を読み始めていた。ナターシャの台本を書いたのが彼女だと知って、こういう書法がどう音楽化されるのだろうかとか感じた。多言語で構成されるオペラというのがどういう形になっていくのだろうか、それは《地球にちりばめらて》を読んでおいて,何がどうという説明は難しいが感覚として大きな助けになった。オペラを観ている間、器楽の、合唱の響きはまるで小説のページの行間や余白の部分、文字の間をたゆたう小さな波だった。聴衆としての僕はそこから言葉を掬って眺めたり、それをまたページに戻したりしていた。

多言語で作られたオペラ、というのは僕は初めて経験した。主要な人物だけでも3つ以上の言語が舞台上にあり進んでいく様は、その言語の存在を受け入れるものと同時に、受容が前定義されていて、どう構築されるのではなく、あるもの。僕はとても新しく感じた。もう一度、ラジオでもテレビでも放送することがあるのなら(願わくは再演だけれど)確かめたいこと、もう一度求めたいことが多くある。こんなにも後から考えるのが分かっていたなら何回も観る計画をしておけば良かった。

劇場のHPにあったインタヴューをいくつか貼っておく。これから出会う文学や音楽を理解するためのヒントにもなり得る良いものだと思う。自分にとってね。

時々ではあるけれど劇場の客席に座る身として感じたのは、気のせいかもしれないが、外国人の聴衆を今までになく見かけたという事。多和田、細川という海外でも素晴らしい評価を得ている作家たちの初演作品ということもあるだろう。それに新国立劇場という日本で一つのオペラハウスに、例えば観光の選択肢として訪れるというのがあってもいいよね。