新春コンサート終演!

桐生市でのコンサートを終えました。13日のコンサートは、本来なら2月19日(土)にあるはずだったのが、緊急事態宣言やまん延防止等重点措置による時勢を鑑みて延期になったのでした。
というのも、桐生市で活動されている合唱団とオペラ歌手との交流というコンサートを支える大きな柱が、その当時は支えられないであろうという事でした。コンサートをする為にやはり集まって練習をしなくてはならないし、ソリストとして招かれている僕達も”移動”が”安全”かどうか、当時(わずか二カ月前ですけれど)は判断が難しかったです。企画、運営をされた深津素子さんの判断は的確で、コンサートの延期に始まるスケジュール設定など大変なご苦労があったと思います。

前置きが長くなりましたが、ここは大事なところでしたので、はい。
困難を乗り越えてたどり着いたこの日を与えてくれたことに感謝です。

美喜仁桐生文化会館。大小ホールを備えた充実の施設です。
当初、小ホールでの公演でしたが、大ホールに変更!これはうれしい変更!

前半のプログラムはソリストたちと合唱団で《美しく青きドナウ》を歌い開幕。
オペラやクラシックの名曲集を藤永和望さん、深津素子さん、木下泰子さん、薮内俊弥さんと僕で歌いました。僕はリクエストコーナーでカンツオーネ・ナポレターナを2曲と、ドン・カルロの中の二重唱《我らの胸に友情を》を歌いました。
後半は桐生市施行100周年記念ステージとして、市歌や桐生市在住の詩人、星野富弘氏の詩による合唱曲などを。そして合唱団の愛唱歌集ステージなど盛りだくさんの内容でした。

本来コンサートを予定していた2月に合唱指導に僕達が加わり、その時はホールスタッフ立ち合いの元、マスク着用、充分に距離を取った位置での練習など神経を使うことは多かったですが、そういった事を乗り越えただけの一体感が本番当日にはあったと思います。ソリストは全員旧知の中でしたので、仲が良すぎて全員の写真を撮っていない。。。。といっても舞台袖で会う以外は楽屋にいたからしょうがないです。

多くの人が感じているであろう昨今の不自由。それは決して乗り越えられないものではなく、それは考えていた姿ではなかったかもしれないけれど、今、立っている世界はそこから解放された、新しい世界なんだと思う。それを感じる事ができるのであれば。
新しい世界に自分自身を導くためには、僕が進む事、そして誰かが歩んでいる事を感じる事ではないか。音楽をするということは、僕にとってそのための行為なんだと感じる1日となりました。

「手渡し」ではなかったけど、いただいた大きな花束。

Macbethを観ましたという話

随分久しぶりに映画館に行きました。

マクベス。デンゼル・ワシントンにフランシス・マクドーマンドという顔合わせ、監督がジョエル・コーエンというのに俄然惹かれたわけですが、昨年、ムーティと一緒に勉強した(←大袈裟)ヴェルディの作曲したオペラの“超“有名なシェークスピアの戯曲ということは僕にとっては大きな理由です。

全編美しいグラデーションの白黒で撮られていて、この映画の場合グレースケールというんでしょうか(ちゃんと調べてないですけど)、今の時代にこの手法を取っているというのはただのノスタルジーではない、技法としてより手の混んでいるものを詰め込んでいることでしょう。画面のアスペクト比も、BBCが残したシェークスピア全集をモチーフにしているのでしょうか。美しさというのには作り手の果てしない吟味が伴っているのは確実にあるでしょう。

映画を観終わって、戯曲を読み終わった時も思いましたが、ヴェルディは随分大変な思いをしてオペラにしたなぁ、と感じます。戯曲から映画でする時もそうでしょうが、何を残してどう描くか、オペラとして上演する効果的な方法を取っていくのでしょう。それに見合ったものが作品化されて、上演されて、なおかつ残っていくのだろうと思います。同じくシェークスピアのリア王もヴェルディは作曲したいと考えていたそうですが、完成していたらどんなものになっていたのでしょうか。

そう、イタリアはミラノ・スカラ座の今シーズンのオープニングはヴェルディのマクベスが上演されました。指揮はリッカルド・シャイー、演出はダヴィド・リヴァモア、マクベスにルーカ・サルシ、マクベス夫人にアンナ・ネトレプコなどスカラ座でヴェルディを、マクベスを上演することには隙のない面々。演出は見た目ほど尖っていないのもあって後々映像で観ても面白いと思います。日本ではダイレクトで観られませんでしたが(観られました?)今はYouTubeで探すと観られると思います。僕は日本時間の夜中にradioRaiで聴きましたが、ラジオはいいですね。再認識。

映画の話に戻りますが、映画は映画館がある意味そのなんと言いますか、ライブといいますかチケットを買って、それは別にネットでもいいんですが、扉が開かれた、椅子の並ぶ、スクリーンのある劇場で観るというのはそれが同じものを同じ劇場で観たからといって同じ体験ではないと思います。映画の中でどこかに引き戻される感覚というのはライブにつきもののものでちょっと違う話になりますけど、特別なものであると思っています。それにお金を払うというか。今はコロナ禍という事もあって緊張感を持って観ることになりますが、劇場芸術にそういった緊張を少しでも和らぐ日がやって来る事をひたすらに願っています。

と言っておいて、この新しいマクベスは映画を観てから知ったのですが、、、、Apple TVで配信されているのでいつでも観られる!なんと!あぁ、僕が先に言った事はどうなるんでしょう、それは観てのお楽しみ。そういう意味でも一捻りあって作ってあるでしょうか。

2022.01.11

今日はなんでも縁起の良い日だそうで、一粒万倍日という、まぁ季節と日に振り分けられている干支とかで1年に60日あるその日と、天赦日という、季節の中で1日あるその日とが重なる日だそうです。

なんだかブログを書く気になれず、しばらく置いていてしまいました。
縁起がいいなら乗っかるのも悪くはなかろう、気持ちを新たに書初めといたします。

昨年の秋頃から世界的に良くなってきたのか、と思いましたが、中々そういうわけにもいかず、頓珍漢なえらい人たちによって世界の中でも日本はどうなっていくのか、音楽の世界に希望をもちながらも、あちらの方が(全く他人事ではないのですけど)心配になります。

1年の欠き損ねた「予定」を更新しつつ、また来るであろう日のお知らせもしたいです。

マエストロ・ムーティはやって来た

4月にマエストロ・ムーティはやって来た。
8月のいまから考えると体感としてはとても時間が経った様に感じるが、演奏から僅かばかり間を置いて、先の東京・春・音楽祭でのコンサートが有料公開になっているのでお知らせです。
↓配信サイトはこちらから
イタリア・オペラ・アカデミー in Tokyo
リッカルド・ムーティ指揮《マクベス》

2006年から東京・春・音楽祭で度々指揮を振っているイタリア人指揮者、リッカルド・ムーティは近年非常に力を注いでいるのが若い音楽家に向けた教育だ。
元は0rchestra giovanile Luigi Cherubiniが始まりだったが、イタリア・オペラとはどうあるべきなのか、マエストロの哲学が詰め込まれたプログラムをラヴェンナを始め世界各地で行っている。東京では2019年《リゴレット》から始まり、昨年はCOVID-19の影響で中止になったが本年《マクベス》が行われた。


今年だってまだコロナ禍の最中であるのだ。昨年末から行われていた外国人の入国規制が音楽祭の多くのプログラムの開催の障壁となった。イタリア・オペラ・アカデミーもマエストロ始め受講生である若い指揮者たち、イタリア人歌手たちの来日が叶うかどうか直前まで難しかったようだ。同じ時期に演奏家でも来日できた人、そうでない人と分かれた事もあり今回の入国にはいくつか意見があったが、そのドキュメントは春祭自身が語っているのでどうか読んでいただきたい。
https://www.tokyo-harusai.com/harusai_journal/2021_diary19/

イタリア・オペラ・アカデミーの指揮者達、オーケストラ、ソリスト、合唱、スタッフがマエストロ・ムーティと2週間、ヴェルディが作曲したマクベスをどう作ったのか、緊急事態宣言下でもあったし、使用客席の上限もあったので今回の配信はより多くの人に“何をやったのか“観てもらえるだろう。

なお、今年行わなれた東京・春・音楽祭のプログラムは以下のサイトから全てではないものの観る事ができる。来年の春こそは多くの人と音楽を分かち合えることを願って。
https://www.youtube.com/watch?v=QhOPIFlqijU

セントレオナール

たくましく純潔な青年セントレオナールは、森の中で恐ろしい大蛇と戦いの末、傷つき、倒れた。森の精たちは悲しみ、彼の流した血が染み込んだ大地にスズランを咲かせた。

私の机の上には、清らかに咲くスズランが挿してある。

大切な友人の夫君が亡くなった。素晴らしい音楽家、テノール歌手として多くの舞台に立ち、仲間にも聴衆にも愛された人。covid-19の収束を願い、その次の世界のために向かう生活を送っていた。心臓発作だった。志半ばであった彼の思いと、残された家族を思うと、悲しみは言葉にならない。

スズランは谷に咲く。セントレオナールの血が流れ込んだからだ。
悲しみの底には美しさが、清らかさが集まる。人の思いがその場所に救いを求めるからなのか。

音楽と共に生き、多くの人に愛された二塚直紀さんのために祈りを捧げる。