《ナターシャ》を観る

新国立劇場で《ナターシャ》を観た。日本の劇場から劇場作品を発信するプロジェクトは《紫苑物語》(2019)《アルマゲドンの夢》(2020)に続き今回で3作目だったかと思う。僕は音楽をしていて舞台にも立つのだけど、今回初めて聴きに行くことにした。熱心なオペラファンでない事がバレてしまうが(同時に舞台に立つチャンスがなかったことも)率直な感想として、観に行って良かったと思える作品だった。

芸術監督の大野和士氏がこの一連の委嘱作品の発起人で、この《ナターシャ》も,作曲の細川俊夫氏の最良の理解者という関係があって、彼のオペラ作品の日本での“世界初演“になったというのを彼のインタヴューで知った。そう、僕は観るにあたってほとんど予備知識がなかった。オペラの物語は頭に入れていったが、大野↔︎細川↔︎多和田という長年に渡る濃密な人間関係が、この世界初演に結びついたことくらいは知っていて良かっただろうな。

少し前、どの新聞だったか、多和田葉子氏の著作の書評とインタヴューがあって、僕はそれを目にして小説を読み始めていた。ナターシャの台本を書いたのが彼女だと知って、こういう書法がどう音楽化されるのだろうかとか感じた。多言語で構成されるオペラというのがどういう形になっていくのだろうか、それは《地球にちりばめらて》を読んでおいて,何がどうという説明は難しいが感覚として大きな助けになった。オペラを観ている間、器楽の、合唱の響きはまるで小説のページの行間や余白の部分、文字の間をたゆたう小さな波だった。聴衆としての僕はそこから言葉を掬って眺めたり、それをまたページに戻したりしていた。

多言語で作られたオペラ、というのは僕は初めて経験した。主要な人物だけでも3つ以上の言語が舞台上にあり進んでいく様は、その言語の存在を受け入れるものと同時に、受容が前定義されていて、どう構築されるのではなく、あるもの。僕はとても新しく感じた。もう一度、ラジオでもテレビでも放送することがあるのなら(願わくは再演だけれど)確かめたいこと、もう一度求めたいことが多くある。こんなにも後から考えるのが分かっていたなら何回も観る計画をしておけば良かった。

劇場のHPにあったインタヴューをいくつか貼っておく。これから出会う文学や音楽を理解するためのヒントにもなり得る良いものだと思う。自分にとってね。

時々ではあるけれど劇場の客席に座る身として感じたのは、気のせいかもしれないが、外国人の聴衆を今までになく見かけたという事。多和田、細川という海外でも素晴らしい評価を得ている作家たちの初演作品ということもあるだろう。それに新国立劇場という日本で一つのオペラハウスに、例えば観光の選択肢として訪れるというのがあってもいいよね。

10

タイトルは10ですが、今は12月です。

ブログを書かない間もいろいろなことがありましたので、少しずつ書いておこうと思います。

10月は東京混声合唱団の一員として、モナコ、フランス、ルクセンブルクの3カ国をツアーで訪れました。ヨーロッパに行くのは20年ぶりでしたし、ほとんどの都市が初めてでした。素晴らしい経験を、素晴らしい人達と過ごせた事は僕の音楽家としてだけでなく、人生の重要な経験となると思います。

東京混声合唱団のホームページで、ツアーの詳細がありますので、ご覧いただければ幸いです。

1月にはその演奏の一部をお聴きいただけると思います。https://www.nhk.jp/p/premium/ts/MRQZZMYKMW/blog/bl/p1EGmp948z/bp/p2wbOZOzx9/

合わせてお楽しみ下さい。

東京混声合唱団は1956年の創団から現在に至るまで、日本の音楽、とりわけ合唱シーンにおいては常にトップランナーでしょう。戦後日本に合唱というものが根付き、多くの人の合唱経験と素晴らしい作品が生まれるその相互作用の中心には、この合唱団が存在していると思います。東京混声合唱団の創団メンバーである田中信昭先生が9月に亡くなられました。心より哀悼の意を表します。

団員の一人一人に刻まれる信昭先生の音楽の記憶と共に、また新しい音楽が作られていく、その始めにご一緒できた事は、何よりも僕の心に残っている事です。

4→5

東京春音楽祭で感じたことを書こうと思っているうちに、やはり1日1日が過ぎていき、季節は夏となりました。5月5日は立夏で、立派に夏なのです。

春祭ではたくさんのプログラムが演奏され、それを楽しむ人々が上野に集まりました。現地点から振り返ると、covid-19の影響があった4年というのは長かったですね。失った時を振り返る訳ではありませんが、もっと音楽を愛したかった人に僕の1日、あなたの何時間かをシェアすることはできないでしょうか。そんな事を思う季節でもあります。

僕は春祭でBruckner《Missa no.3》とVerdi《Aida》に参加しました。
劇場に訪れる方も多く、同時配信もありましたので、多くの方に楽しんでいただけたかと思います。1ヶ月、上野のどこかしらで毎日のように世界から演奏家、聴衆が集まる中で、本当にたくさんの方が演奏会を支えてくださったことに演奏者の1人として感謝します。この音楽祭を取り仕切る鈴木幸一氏の言葉を借りれば、ここで行われた音楽は「音の記憶」をたくさんの人に残していると思います。

HPや公式プログラムには興味深いインタビューが掲載されているので、折を見て読み返してみたいと思う。

4月

3月は終わり。4月は始め。

別れには多くの言葉はいらないだろう。過ぎた事だからさ。

特にね、君と僕の別れには。そう、最後まで一緒だったからね。

一言でも交わすことがあったなら、それは幸せだっただろうか。

終わりと始まりを繋げているこの季節には時折雨がふる。

雨宿りでもしていくかい?





僕の4月の歌の仕事、幸いにも東京・春・音楽祭に参加しています。

今年もスペシャルなプログラムが並ぶ音楽祭だが、その中の2つの演目に合唱として出演します。

ストリーミングでもお楽しみいただけるこの音楽祭、上野にいらっしゃれない方はこちらをぜひご利用ください。

ブルックナー《ミサ曲第3番》
4月13日(日)14時開演
ローター・ケーニヒ指揮
東京都交響楽団
※詳細はリンクへ

ヴェルディ《アイーダ》
4月17日(木)14時開演
4月20日(日)14時開演
リッカルド・ムーティ指揮
東京春祭オーケストラ

※詳細はリンクへ

12月

今年の12月3日はアドベント、イエス・キリストの降誕を待ち望む期間、待降節の始まりだそうです。僕はクリスチャンではないので述べることはとてもくだらないことですが、お菓子の入ったアドベントカレンダーの空白を見ることは静かで幸せの景色です。

東京で生活をしていると、11月に酉の市が何日かあって、そこで熊手を買ったりすれば、良いお年を、というのがこの場での挨拶となる。朱の色、差し色の緑もやはり僕には幸せの光景です。

挨拶を交わす、季節を祝う、慎ましやに(賑やかにでもいいけどさ)幸せを分かち合う。
しかし世界は、それが当たり前のことではないことを見せつける。せめてひと時だけでも、そのせめてが1日でも長く続かないのだろうか。

僕の12月は、マーラーの一千人の交響曲で終わります。とてつもなく大きなスケールの曲を前に驚くばかりです。

https://www.nhkso.or.jp/concert/202312A.html?pdate=20231216

(リンクがうまく貼れなかったので↑から)

今年は《第九》を歌わないので、年の瀬を早く感じるでしょうか。

今を大事に過ごしましょう。