こだいらチャリティーコンサート終演

3月10日、第9回東日本大震災復興支援こだいらチャリティーコンサートに出演しました。昨年に続き、主催の小平市在住の声楽家、下村雅人さんに声をかけていただき、同じく集まった多くの音楽家と、合唱団の皆様と一緒に舞台に立ちました。

昨年の様子はこちらから。

昨年同様、たくさんのお客様に足を運んでいただき、お志とあたたかい拍手と笑顔をいただきました。プログラムの最後に出演者全員で《群青》を歌いました。この曲は、南相馬市立小高中学校の2012年度卒業生と同中学校音楽教諭である小田美樹さんが作った曲です。シンプルな旋律ながら、信長貴富さんの編曲も相まって、歌っている側も胸を熱くさせる曲です。

チャリティーや支援に関してはいろいろな考え方がありますが、僕は下村さんからコンサートや支援の内容を聞いて、自分も力になれたらと感じました。毎年、募金額が増え、回を重ねるごとに”客席と出演者で一緒になって雰囲気を作っている”のだそうです。

皆様からいただいたお志は、支援が必要な方々に近くにある所へ全額が送られます。そういった場所を選んだ、り、出演者一人一人に声をかけてくださったり、ご夫婦の細やかなお心遣いに今年も感服しました。

出演者全員?と
しもさんこと下村雅人さん。大先輩の背中は大きい!

あれから8年。その間にも熊本、広島や大阪、北海道など多くの場所で災害が起き、被災された地域、そこに住む人たちに関する報道を見聞きします。

知らせの前で立ち尽くす事が多いですが、生きていく強さ、そして支える人達の優しさと温もりのひと押しになれたらと思います。

東日本大震災で亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、被災された方々が心穏やかに過ごす日が1日でも多くありますように願っております。

オペラ《金閣寺》終演

黛敏郎作曲の《金閣寺》が東京二期会の公演によって24日に終演した。

楽譜をもらってから2ヶ月、瞬く間に、というより、とんでもない速さで駆け抜けるように稽古から公演が過ぎた。劇場にいる時はとても長く、自分のかけらを落としては拾いに行く様な毎日だったのに、終わってみるとずいぶん前のことだったことに思える。そんな事を繰り返して、生きていると感じる自分をたまに不思議に思う。

マキシム・パスカル氏の大きな手で受け止められる音とドラマは、オーケストラと劇場空間においても何もこぼす事なく包まれて、光に満ちた舞台は、まるで音によって周る幾重にも重なった走馬灯だった。合唱団は歌う箇所が多く、客観的に舞台を観る時がなかったので、実際にどういう舞台になっているのか、美しい映像があったり、印象的な演出の出来事は知ることはできないけれど、観た方はどうかしら、重なったのなら嬉しい。

音楽的にも理解が深まる彼へのインタヴューがとても良いので終演後ではあるけれどもう一度読みたい。https://ebravo.jp/nikikai/archives/1395

同室の役者の方々と話をしていて、三幕の”京都シーン”のリハーサルを演出家・宮本亜門さんが度々繰り返された事があった。ものの数分のこのシーンはあまりにも繰り返すものだから申し訳ないと思っていた、と彼らから聞いた。あの数少ない群衆の場面のすぐ後、合唱がお経を唱えて入ってくのだけれど、その直前の静寂の情景に、群衆によって舞い上げられた艶やかさが、まだ舞台上に残る残像にふりかかる。舞台上のコントラストと、そこにある残り香がドラマを進めていた様に思われて、宮本亜門さんはずいぶんうまい仕掛けをしたものだ、と一人思っていた。的外れでいたらごめんなさい。

自分の仕事ぶりはさて置いて、合唱団の仲間に恵まれ仕事ができて、本当に良かった。顔を真っ黒に塗ったり、また落としたりする作業も、暗譜の不安を共有?したのも良い記憶だ。合唱はオペラの屋台骨だなぁと仕事をする度に思うが、この作品は燃え残っても、再建されても崩れない金閣寺のフォルムの様じゃないか!と今、思う。

オペラ《金閣寺》が観てくださった皆様の心の中のどのくらいかまで触れたか僕は想像もできないが、劇場の階段での立ち話の一つになったらきっと楽しい。

オペラって面白いな、と今また全ての人に感謝するとともに思い出す。

金閣寺に向かう

歌劇《金閣寺》は今週末2/22の初日に向け、既に劇場でのリハーサルが進んでいる。(こういうのを小屋入りとか劇場入りとか言ったりする。)

フランス、ストラスブールからやって来たプロダクションはとても美しく、僕たち合唱が着る衣装も一つこだわりのある、きれいな色味で、着るだけこの作品の世界へ向かわせる。

ストラスブール・ラン劇場(Opéra national du Rhin)の初演での様子を日本公演に合わせて紹介した記事。衣装や装置も垣間見ることができる。

https://ebravo.jp/nikikai/archives/1331

演出の宮本亜門さんの上演当時のインタヴュー

https://youtu.be/ePBa55-4Hzs

新国立劇場では石川淳原作、西村朗作曲の新作オペラ《紫苑物語》が先日17日に世界初演を迎え、3/2,3には、なかにし礼原作、三木稔作曲の《静と義経》(日本オペラ振興会公演)と期せずして(おそらく)邦人オペラ作品の上演が重なり、音楽仲間の中ではその話題でどうしても盛り上がる。

黛敏郎の《金閣寺》は上で挙げたそれらの中では一番古く、1976年にベルリン・ドイツ・オペラの委嘱作品として初演された。日本での上演は2015年の神奈川県民ホールでの公演が最新であり、それより以前は1999,1997,1991,1982年と遡る。三島由紀夫の超有名な原作で日本を代表する作品としては多いか少ないのかは僕には判断は出来ないが、やはり大きなプロダクションで成立する作品である事を自分の体感として持つ。

外国の劇場で作られた日本人演出家による作品を、二期会が制作して日本で上演するという、色々なことがクロスオーヴァーする様で、プロダクションの意義として大変面白い。そして作品そのものである「溝口」を歌える歌手というのは時代を現しているのではないか、と感じる。同役を歌われる宮本益光さん、与那城敬さんは金閣寺という作品が待っていた歌手なんだ、と思わせてくれる。

作品は「溝口」の体内をめぐる血液、脳内を流れる電流が音楽化されている様で、それをそのまま可視化する今回の舞台は一体どんなふうに観客に受け止められる事になるのだろうか。舞台のかけがえのない一部となれる様、まずはもっとその中に入り込んでいかなければと思う。

むつき、きさらぎ

書きたい事を見つけポケットから手を出すと、そこから言葉がパラパラと散らばって、慌ててかき集める内に、1月と2月の間をまたいで書き損じてしまった。

僕がやっている仕事は月極めではないから、それが何か特別なわけではないけれど、楽譜で小節間をまたいだりする時に書く弓型の記号を、そのまま時間にまたがる様に書き加えたい気持ちだった。

1月31日と2月2日はリッカルド・ムーティRiccardo Muti 指揮、シカゴ交響楽団The Chicago Symphony Orchestra によるヴェルディ作曲 レクイエム Messa da Requiem の公演に参加した。この公演についてはゆっくり振り返りたい気持ちだ。心の深いところに流れる、まるで地下深くにある大河を感じる様だった。

そして、今は2月22日、23日、24日公演の黛敏郎作曲、歌劇《金閣寺》のリハーサル真っ最中だ。僕は二期会合唱団の一員としてローエングリン以来1年ぶりに皆と舞台に立つ。既に通し稽古を経て、来週頭には劇場に入り、あっという間に公演になってしまう。公演が3日しかないなんて、オペラ公演はなんと儚い。。。

2月の呼び名として「如月」と言ったりもするが、寒さが厳しくなり衣服を重ねる「衣更着」とか春を待ちわびるかの様に「気更来」「生更木」などから来ているのだそうだ。今年の「きさらぎ」は生暖かい日もあれば、雲が低く、雪が舞う日もあり、空模様もまた慌ただしいではないか。やはりそんな季節なのだろうか。

日々にただ追われず、一歩先を見て、というのは自分の場所を知っているから出来るのだろうか。

2019年、幕開け

慌ただしく過ぎる日々に焦りがつのるけれど、新しい年を音楽で迎えられた幸せは何に変えられるものではないです。

アンドレア・バッティストーニが指揮する東急ジルベスターコンサートの華やかなカウントダウンは、ヴェルディの《アイーダ》より凱旋行進曲という事もあり、とても彼らしい音楽になったのではと感じています。僕の周りでは少しの間新年話題になりました。

テレビ放送には収まっていないかもしれないですが、彼の新年のメッセージが印象的でした。

戦争や政治的な対立、緊迫などが続く今だからこそ詩を読み、美しい絵を観たり、音楽を聴き、オペラを観に劇場に来てください。私達はいつでもそこにいます、というような事だったと思う。

新年のおめでたい雰囲気の中で、ひとつ芯のある言葉が、オーチャードホールに集まったひとりひとりに残ったのではないでしょうか。絵画芸術やオペラや音楽会などが時代に取り残されているのではなく、確固たる存在としてあるのだというプライドを芸術家に与えてくれるような気持ちもしました。

終演後のパーティーでバッティストーニと

2019年上半期は刺激的な一年になりそうなので、与えられた環境や仕事以上に自分の中の蓄えを増やしていけたらと考えています!

音楽にあふれた、愛しい日々が共にありますよう願っております。