二期会公演《Salome》観劇

6月5日の初日を観た。ヴィリー・デッカーの蒼い月の光に照らされる階段状の舞台(ヴォルフガング・グスマンの装置)は幕開けから平行感覚を失わせる長い階段の、屈折した人間が集まる舞台上に難なく僕は没入した。色彩は一見してモノトーンでいて、確実にシュトラウスの音楽を描くキャンバスとなっていて、指揮者セバスティアン・ヴァイグレの、音楽に忠実な色彩が常に舞台に反射するように思えた。有名な”七つのヴェールの踊り”では舞台に残されたザロメとヘロデの対角する距離感が、長い階段の影を月光が薄めていくかのように静かな緊張感を視覚から取り入れた音楽体験だった。

舞台上で”月光”の作る影というものが物語を推し進めているようにさえ思うほど、僕は光と影を目で追ってしまった。そこには立つ人間がいて、立つという意思があって、そこでの距離感が作る関係性というのはとても意味を持つように感じた。(ギリシャ悲劇から続く伝統?)月の光の不可解な静けさを、誰もが感じたことがあるだろう。太陽の反射光は自分の不在が作った闇を柔らかく撫で落として物の形を僕たちに認識させる。そのミステリアスな記憶を全て喚び起させる不思議な印象は物語のせいもあるのか、これは全く個人的な事だろう。

20年以上前?の演出作品を”新演出”と銘打つ理由をどこかで知ることなかったのだけれど、妖艶で破壊的なイメージがするSalomeではなく、どこか幼児性、無垢なものが持つ狂気を感じた。それはヴァイグレの純度の高い、外連味のない音楽がそうなのか、演出のせいなのか、素晴らしい歌手によるものなのか、一度観ただけでは解りかねるが、とても新鮮なことによる生々しさを強く感じる舞台だった。

ひとつ、つまらないこと。Salomeは”サロメ”と日本では読んでいるし、ワイルドの戯曲の和訳もそう書いて本屋の本棚には並んでいるし、僕自身も今日は「.サロメを観に行く」と心の中で言うのだ。

舞台では誰もが彼女のことをSalome(あえてカナで書けば)ザーロメ!と歌い上げていて、聞いた人のほとんどはそれでもサロメね、と理解するのだから外国語というのは難儀だと思う。

第47回 ムジカ・ノヴァンタノーヴェ演奏会

第47回 ムジカ・ノヴァンタノーヴェ演奏会

今年のテーマは1900年代のイタリアの室内歌曲です。交響曲で有名なレスピーギや、チレア、アルファーノ、ザンドナイといったオペラで名を馳せた作曲家たちの他、ダヴィコ、ゲディーニ、ペトラッスィなど演奏機会が多いわけではないですが詩情溢れる美しい曲を多くプログラムしております。

是非ともいらしてください。

出演者 番場ちひろ、下村裕子、星川美保子、中島郁子、相山潤平、宮本英一郎、佐野正一、森田学、髙木由雅(pf)

2019年6月30日(日) 13:30開場 14時開演

全席自由 一般4,000円 学生2,000円

ハクジュホール (千代田線 代々木公園駅、小田急線 代々木八幡駅から各徒歩5分)

お問合せ ビーフラット・ミュージックプロデュース

時代

年号が変わると時代が変わるのか、僕にはまだよく整理がつかないけれど、1日1日が良い時間のつながりであれば、それはとても良い事だと思う。それを思い起こすにはちょうど良いのかもしれない。

何かと堅く理屈を言うものの、友人の出演したコンサートに令和の文字が入った飴を送ったり、明日は仕事も入れず家族と過ごそうなど、ちゃっかり時勢の波に乗っているではないか。

以前、知人と「時代の空気」というのを感じづらくなったね、なんて話をしていた。インターネット、スマートフォンに向き合った、内向きの、自分が選んだ情報に囲まれると、そういったものが作られにくいんではないか、という話になった。誰かが声を上げて、ネット上に響いたとしても顔を上げたら何事もなく世の中は動いていて無力感を感じたり。元々は政治的な話でそんな事を話していたのだけれど、時代というのは変わらないのではないか、なんて考えていた。

でも、特にこの最近を見て感じるのは、そんなものは皆が変わると思えば変わるし、感じようと思えば感じるものなのだな、と少し明るく捉えている。時代を感じて、大きく動かすのはやはり人とのつながりで、会話で、それが全体主義でなく、決められたものに流されるものではなく、作り出されて感じ合って生まれたらと思う。

次の時代は、とは言わない。それぞれが今を生きていることを感じ、それを尊重できたらいいのではないだろうか。

然として

《オランダ人》で舞台に立っていたブリン・ターフェルBryn Terfelやペーター・ザイフェルトPeter Seiffertの雄姿を見られる機会などそうあることではないから、ホールでのリハーサルや本番で自分の出番がない時は舞台袖まで行って、舞台裏まで響くその声だけを聴きに行ったり、袖口から見える横顔だけでもと隙間から覗く様に見たりしていた。

コンサートの1時間前にはまだ楽屋口でサインに応じていた彼らは、一歩舞台に出て、または一言歌い出すその瞬間には、もう自分の役柄としてそこで立っていて、僕たちもそうやって舞台にいるつもりでも、さっき楽屋から舞台までの間に「ウェールズ最高!」と言っていた人との差はとんでもない。もちろんザイフェルトがエリクErik役を何百回やっていることを知っていても、目の前では、2幕の登場や、3幕のバラードは常に新しく、作り込まれていない新鮮な言葉を歌っている様に感じられる。言葉の使い方が正しいかどうかわからないが、そのままである、という意味でオランダ人然として、エリク然としていた。

然(ゼン)という言葉は「しかり。そのとおり。そのまま。」「状態を表す語を作る助字」と辞書にはあり、形容詞に付けたり、付けることでその後を形容させる。音楽家は、いわゆるクラシックにおいては楽譜の再現、表現が果てしない目標なのであるが、その◯◯然でとなるのは、舞台の成功以上の価値の高いものだと僕は思っている。

オペラや歌曲ならば、書かれている言語に支配されるのであろうが、必ずしも母国語だから、とか流暢に話せるからとかでその自然な、まるで景色のようにいることが成立することはないということは知っている。外国人だから、とか有名人だからそうであるわけでも無い。(もちろんそれは個人的な好き嫌いということを完全では無いけれど除いて)

何百回と演じながらもその一瞬をどれだけ役に、その音楽に向き合ったかという結果、と随分簡単に言ってしまうが、そんな音楽家として純粋な事なんだろうな。漠然とした所にしか僕の考えは至らないが、◯◯然とする、いや、なるのか、の方が「人」としても自然でいられると思わせてくれる、温かい人間性を彼らは持っている。そうありたいと思わせてくれるし、そんな所に果てしない憧れを持つ。

エリクを歌ったペーター・ザイフェルトとセルフィー!

東京・春・音楽祭2019

東京・春・音楽祭は、上野にある東京文化会館を中心として国内外の演奏家が魅力的なプログラムで数多くのコンサートを開催している。2005年の「東京のオペラの森」から数えて今年で15回目、「東京・春・音楽祭」と大きな題名を掲げてから10回目となる。認知度も高くなり、演奏会の数、プログラムの多様性は文字通りといっても良い、東京の春に音楽で華を添えている 。

15回の記念すべき回となる今年の音楽祭は14日のシェーンベルク作曲の《グレの歌》によって閉幕した。この超大編成の演奏会には参加できなかったが、最終のリハーサルを聴くことができ、ソリスト、オーケストラ、合唱とすべてのパートが“音楽祭”的布陣で、きっと本番も素晴らしい演奏に違いないという確かなリハーサルだった。当日のコンサートを聴くことができた人はきっと幸せだっただろうし、演奏に携わった人達も音楽家として幸せな日だっただろうと、うらやましく思う。

僕は《さまよえるオランダ人Die fliegende holländer》(4/5,7公演)で東京オペラシンガーズの一員として参加した。NHK交響楽団がワーグナーを演奏するシリーズの10回目となるこの作品は、ダーヴィット・アフカムDavid Afkham指揮、ゲストコンサートマスター、ライナー・キュッヒルRainer Küchlを中心としたオーケストラの確かな演奏に、ブリン・ターフェルBryn Terfel、リカルダ・メルベートRicarda Merbeth、ペーター・ザイフェルトPeter Seiffertといったスーパースターを迎えたことで、記憶に残る素晴らしい公演となった。それを証明するのは終演後の客席の反応で、2公演とも熱狂的に、1階席はもとより、上の階もほとんどが立ち上がっていた様に舞台側からは見えたし、オーケストラや合唱が舞台から降りた後でも拍手が鳴りやまず、指揮者、キャストが再びカーテンコール?に応じていた。この盛り上がり方は近年の春祭ワーグナー・シリーズでは記憶にない。素晴らしい演奏だったことは間違いはない(はず)が、この音楽祭が人の心に根付いている証なのではないだろうか。続くことで聴衆の期待度は増すし、演奏の充実というのもそれに応じるだろうし、その好意的な循環がこの東京で作られていっているというのは15回の内10年は何かの公演に携わった者の実感としてある。合唱のいちメンバーとして今年も関わることができて、本当に幸せだったと思う。

写真は東京・春音楽祭Facebookより