街を歩く

人形町界隈を歩いた。

年の初めまで近所にあったパン屋BoulangerieDjangoがこちらの方に引越されたので、久しぶりに食べたくなって(というよりは我慢ならなくなって)足を伸ばしてみた。

とても美味しいパン屋さんなので、地元からなくなってしまった時、僕は随分悲しんだが、新しいお店の明るい雰囲気と、お客さんのパンを見つめる幸せそうな姿を見て胸のすくような思いがした。

大袈裟かな?でもパンは大切なんだよ。

暗くなり始める街を歩く。辺りの小さな間口の料理屋の灯りが残されて、車が走る音も遠くなり、五感のトーンが平坦になっていく。

幅の狭い路の向こう側に、軒先で屈む老夫婦の間から小さく火が立ち上がった。火の先に登る煙が見え香りもやってきた。今日は送り盆だ。

煙は尾を弛ませるように登っていく。僕は煙を遠く感じて、去りながらも見送る。

また違う景色をゆっくり写真を撮って歩きたい。

感謝の日、ムジカノヴァンタノーヴェ終演

6/30、ムジカノヴァンタノーヴェ演奏会を無事に終演した。お足元の悪い中、いらしてくださったお客様、ハクジュホールのスタッフ、コンサートを全面的にサポートしてくださったビーフラット・ミュージックプロデュース様に感謝申し上げます。

自分の演奏をどうこういうよりも先に(他の出演者はもちろんとてもすばらしかった!!)どうしても感謝を伝えなければいけない人がいる。

僕の父が、地元駅で家族とはぐれてしまい、そのまま電車には乗ったのだが、ホールまでの道がわからず、電車の中で知り合った人にホール受付まで送ってもらったというのだ。

父は数年前から高次脳機能障害になり、不慣れな場所に行くのにはかなりストレスがかかる。幸い、コンサートの会場名、開演時間、僕の名前など、必要な情報を手帳に自分で書いていたので、案内してくださった方がそれを頼りに案内してくださったそうだ。開演時間にも間に合い、先に到着していた家族とも休憩時間に会うことができた。(家族は、散々探したが見つからないのでホールに行ってると信じて出発したらしい)

色々な偶然が重なり奇跡のような出来事だが、父を導いてくださった方がいたからこその1日である。

僕たち家族の恩人に電話で連絡がとれ、感謝の言葉以外には何も出てこなかった。お礼を固辞され、その意思を尊重する方が大事と思った。お名前はもちろんここでは出さないが、こんな素晴らしい人のおかげで、僕達は幸せな1日を送ることができた。本当にありがとうございます。

歌う楽しみ

演奏会のためのレッスンを受けていて、久々に心に響いた言葉を先生から受けた。もちろんレッスン毎に良い歌になるための全てをもらっているのはもちろんの事ではあるのだけれど。

「歌にしていくには、君自身が言葉にならなくてはいけないんだよ。」

これはたくさんの曲を歌っても1曲を歌うにしても同じく言える事で、僕が歌う意味というのを改めて考える一言だと感じた。声の事を考えたり、音程を取ろうとしたりせず、詩に向き合った作曲家が何を見たのか、その血の内を感じる事が歌う人の事なのであろうか。

外国語の歌の問題はネイティブに扱う人以外にはやはり言葉だろう。ひとつと単語を取り出してみても、辞書にある1,2,3と辿っていけば意味合いが変わってくる。誰かの読んだ対訳では1の最初の言葉だけど、僕には2番目の言葉がしっくりくる。意味は同じだけど。温度がね、手触りがね、こっちかな。とぶつぶつ言いながら辞書を次にめくる。曲に触れた時とはまた違った言葉が見当たるかもしれない。元の言葉は変わってないのに、レンズを変えて撮影するカメラの様に(ズームでもいいけど)自分の想像力の光をどうカメラに通していくのか、というのは面白い作業だと改めて感じる。

辞書もいらない流暢な言葉の使い手になるとこういう面白さはなくなっていくのだろうか。

学生時分に、何もない、ただ美しい詩に「これはどういう意味が、解釈があるのでしょうか」と語学の先生に尋ねたら、「言葉の通り読んでください。」と言われた事を思い出す。

歌うことは楽しい、といつも思う。

二期会公演《Salome》観劇

6月5日の初日を観た。ヴィリー・デッカーの蒼い月の光に照らされる階段状の舞台(ヴォルフガング・グスマンの装置)は幕開けから平行感覚を失わせる長い階段の、屈折した人間が集まる舞台上に難なく僕は没入した。色彩は一見してモノトーンでいて、確実にシュトラウスの音楽を描くキャンバスとなっていて、指揮者セバスティアン・ヴァイグレの、音楽に忠実な色彩が常に舞台に反射するように思えた。有名な”七つのヴェールの踊り”では舞台に残されたザロメとヘロデの対角する距離感が、長い階段の影を月光が薄めていくかのように静かな緊張感を視覚から取り入れた音楽体験だった。

舞台上で”月光”の作る影というものが物語を推し進めているようにさえ思うほど、僕は光と影を目で追ってしまった。そこには立つ人間がいて、立つという意思があって、そこでの距離感が作る関係性というのはとても意味を持つように感じた。(ギリシャ悲劇から続く伝統?)月の光の不可解な静けさを、誰もが感じたことがあるだろう。太陽の反射光は自分の不在が作った闇を柔らかく撫で落として物の形を僕たちに認識させる。そのミステリアスな記憶を全て喚び起させる不思議な印象は物語のせいもあるのか、これは全く個人的な事だろう。

20年以上前?の演出作品を”新演出”と銘打つ理由をどこかで知ることなかったのだけれど、妖艶で破壊的なイメージがするSalomeではなく、どこか幼児性、無垢なものが持つ狂気を感じた。それはヴァイグレの純度の高い、外連味のない音楽がそうなのか、演出のせいなのか、素晴らしい歌手によるものなのか、一度観ただけでは解りかねるが、とても新鮮なことによる生々しさを強く感じる舞台だった。

ひとつ、つまらないこと。Salomeは”サロメ”と日本では読んでいるし、ワイルドの戯曲の和訳もそう書いて本屋の本棚には並んでいるし、僕自身も今日は「.サロメを観に行く」と心の中で言うのだ。

舞台では誰もが彼女のことをSalome(あえてカナで書けば)ザーロメ!と歌い上げていて、聞いた人のほとんどはそれでもサロメね、と理解するのだから外国語というのは難儀だと思う。

第47回 ムジカ・ノヴァンタノーヴェ演奏会

第47回 ムジカ・ノヴァンタノーヴェ演奏会

今年のテーマは1900年代のイタリアの室内歌曲です。交響曲で有名なレスピーギや、チレア、アルファーノ、ザンドナイといったオペラで名を馳せた作曲家たちの他、ダヴィコ、ゲディーニ、ペトラッスィなど演奏機会が多いわけではないですが詩情溢れる美しい曲を多くプログラムしております。

是非ともいらしてください。

出演者 番場ちひろ、下村裕子、星川美保子、中島郁子、相山潤平、宮本英一郎、佐野正一、森田学、髙木由雅(pf)

2019年6月30日(日) 13:30開場 14時開演

全席自由 一般4,000円 学生2,000円

ハクジュホール (千代田線 代々木公園駅、小田急線 代々木八幡駅から各徒歩5分)

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