日々更新に生きる

特段新しいことでなくて、既に知っていると思っていることだとしても
何かの折に、それを覆す、またはそんなに大げさなことではないにしても
あぁ、こういう事だったのかと思わされる事がある。
再び読む本から、ありふれた言葉の二つ目の意味から、通り慣れた道と知らない道が繋がっていることから。

楽譜を見たり、練習したりしていても(それをもう何年も繰り返していても!)
旋律の関係性や、技術的なことで気付かされることは毎日だし、
10年前に言われていたことが、ある日突然耳元で囁くようなこともある。
演奏会の準備で先生のお宅へ伺い、レッスンを受けたり、お話を聞いたり、
知り合って何年にもなる門下の先輩方と話し合っていると、
今の自分を“更新”すると共に、昔の自分をきれいにしているようにも感じる。
きれいにするとは、美化することでもなく、整理するとはまた印象の違う、磨くと言う方がいいだろうか。
日曜日に迎えるコンサートの準備は、新しい環境で作る刺激とはまた違った日々になっている。

ニュースで知った小林麻央さんの訃報。ご家族はさぞ辛いことだろう。
昨年、闘病の中、bbcの“100women”選出に際し寄稿した彼女の文章を思い出した。
がんと闘病の小林麻央さん、BBCに寄稿 「色どり豊かな人生

彼女が自分と、そして家族と向き合って改めて知った喜びがあったように、
各々が持っているだろう強さ、優しさ、身近なものへの繋がりというものに
もっと自身で光を当てて生きられたら、きっと眩しいくらいに彩られた世界になるんじゃないか。

真っ青な空と、暑い暑い今日の日に僕は生きていることを思った。

演奏会に向けて!

6/25のコンサートに向けて出演者一同練習に励んでおります。

ノヴァンタノーヴェの演奏会は、イタリアの声楽曲を取り上げて演奏している。演奏者は僕が大学時代からお世話になっている三池三郎、弘美両先生とその門下生で構成されていて、聴衆に対する音楽の一面もあれば、演奏者自身の音楽への理解を深める面も多分にある。

毎年テーマを決めて、それに沿った作曲家、作品を選び演奏するわけだが、オペラ、歌曲、宗教曲、そして時代に問わずイタリアの音楽は美しいな、と常に感じている。

昨年は1880年代に生まれた作曲家に中心にしたプログラムで、なかなかに難しい曲が多かったもののロマン派の作品に比べると聴きなじみがあるわけではないレスピーギ、ザンドナイ、ピッツェッティ等の作品の素晴らしさの一片を伝えることに出演者一同努めた。
45回目になる今回のプログラムは、副題にある「独唱と二重唱400年のあゆみ」の通り、
モンテヴェルディ、ロッティ、ヴィヴァルディ、パイズィエッロ、モーツァルト、ロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティ、メルカダンテ、ヴェルディ、チレア、モルタリといった16世紀から20世紀の作曲家の作品からイタリアの音楽の400年を感じていただこうというプログラムになっている。

イタリア音楽=オペラというイメージはやはりそのまま事実でもあるのだけれど、作曲家は大きな舞台作品と共にサロンで演奏するような小品もまたたくさん作っていて、それでいても”らしさ”を失わない。

ヴェルディの歌曲をとっても、その舞台作品の壮大さ、劇的なものは4ページの1曲になっても何1つ失うことがなく、より凝縮したものとして感じることもできる。

またオペラというジャンルひとつにとってもその成り立ちに大きな物語があるように、それを作っている独唱、合唱、器楽曲それぞれにそれぞれが刺激し合う歴史があって、それが育んだ土はイタリアだ、と言い切ってもとやかくいう人は少ないんではないだろうか。

大学に入った時先生に最初に言われた事は、音楽はその国の文化の1つの側面であるから音楽を勉強するという事は歴史、文学、美術、料理、生活様式も含めて多面的に勉強する事なんだよ、というのは自分の底辺に据えられているな、とノヴァンタ〜に参加する度に確認している。

あと2週間と少しほどであるが、また少し追い込んでより深い理解と良い演奏につなげていきたい。

そして、1人でも多くの人に多様な音楽の楽しみを感じてもらえたらという希望を持って、せっせとお手紙書いたりメールを送ったりと集客の努力もしなければ!

カッターい文章になってしまったが、6/25はヤマハホールでお待ちしております!

ひとつひとつ

先週末、取手混声合唱団とのモーツァルト《レクイエム》を終えた。
なんだかずっと緊張していて、舞台に立つとGPでも体が固くなってしまって自分の体でないみたい。
隣に座る大学の同期であるバスのソリストからアドバイスを受けながら、もしくは緊張している僕のモノマネをされながら、なんとか本番は歌い終えることが出来た。

合唱とオーケストラの響きの中にどっぷり浸かりながら、どうにかうまく歌うことを頭で巡らせていたが、
そうか僕はこの音楽の一つのピースなんだ、と緊張のあまり忘れていた事が目の前を明るくしてくれた。
緊張とは厄介なものだけれども、与えてくれるものあるんだな。

自分の心が開かれればたくさんのものが聴こえてくるもので、
オーケストラの方々は合唱団の声の動きをこちらに耳が見えるほどよく聴いてらっしゃるし、
指揮の山田先生の柔らかい面持ちだけでなく、しっかりと音楽をつかむ呼吸を与えてくれているし、
優しいソリスト達はアンサンブルの道筋をぎこちなくしている僕と一緒に歩いてくれたし、
何より、演奏の大方を占める合唱が美しい音楽の形を作っていた演奏であったと感じた。

音楽は聴こえるものでもあるし、見えるものでもあると思っているのだが
美しい音楽の形とは、心が向かう姿のことをいうのだろうな。
この話はおいおい。

ひとつ大事な演奏が終わり、そしてまたひとつに向けて進もうと思う。
ようこそ、6月。

ただあこがれにみちびかれて

僕は今一冊の本を目の前にしている。

佐々木成子著「ただあこがれにみちびかれて ある歌い手 60年の歩み」(1996年刊)

お名前を知ったのも、お言葉を交わすようになったのもこの5、6年であるので
その頃の明るい良く通るお声で、きれぎれに響く気持ちの良い笑い声を耳に思い出しながら読んでいる。
先生は5月15日、97歳でお亡くなりになり、5月にしてはとても暑いこの日、ご葬儀であった。

佐々木成子(ささきさだこ)先生は、東京音楽学校(現東京藝術大学音楽学部)を卒業後、日本交響楽団(現NHK交響楽団)など多くの演奏会でアルト・ソロとして活躍され、終戦後1955年に渡欧。1957年の帰国までに、ウィーン交響楽団との録音や、作曲家マルクスの生誕75周年コンサートにウィーン国立歌劇場歌手とともに出演するなど、多くの足跡を残された。
演奏活動と共に、ザルツブルグ国際モーツァルテウム夏季音楽アカデミーなど海外の講習会、東京藝術大学、武蔵野音楽大学、京都市立芸術大学、名古屋音楽大学などで後進の指導にあたられた。1965年には日本人で初めてオーストリア共和国から芸術科学名誉十字勲章を授与されている。

先生のご活躍、ご功績は書きつくせないものだし、それをする資格は僕にはない。
なぜなら僕が先生に会う時は、もう15年ほど先生にお世話になっている妻について行っている時で、
先生がお住まいになっているホームの娯楽室で開かれる門下生によるHaus Konzertと、その後に開かれるお食事会がほとんどであった。
先生はお相撲が大好きで、食事会の前はお部屋に戻ってお気に入りの力士の取り組みをご覧になってからにこやかに皆の前に戻ってきたこと、先生や出演者、門下生の方々に結婚のお祝いをしていただいたことを思い出す。

最寄駅からお住まいでありお別れの会の会場であるホームまで妻と歩いた。
もうこの道を歩く機会はそんなに多くはないのだろうかと思いながら、そんなことを口にすることはなく、暑さがいつもの道のりをとても遠く感じさせるようだった。
途中、京都での門下生の方とずいぶん久しぶりにお会いして、こんなことでもないと会わないなんていやだね、なんてお話を門下生同士交わしていた。

ご葬儀の場所はやはり悲しみがいっぱいで、佐々木先生のリサイタルの録音が献花を待つ控室に時折聴こえてくるとその歌声に各々が思いを巡らせているのを感じた。直接教えを受けたことがない僕は、ただその思い馳せる人の視線をたどることで涙の出口をそらすことくらいかできなかった。
僕の隣に座る妻の横には、やはり佐々木門下である日本で屈指のバリトン歌手がいらっしゃった。妻は通っていた大学でお世話になっていたこともあり、出演されたオペラの舞台を先生がとても自慢されてましたとお伝えした。リートのように歌っていたわ、と。
佐々木先生はオペラ嫌いやったからなぁ・・・と照れながら、寂しそうにも見える笑みでおっしゃっていた。
いざ、お別れに棺に花を飾る時もなかなか立てないでいて、さすがにその姿には僕まで泣いてしまうところだった。

前の日の晩、「明日が来なければいいのに」と妻は言った。
明日がある、明けない夜はない、なんて明日に向ける希望は数多あれど、明日が来なければいいのに、という願いは叶わないのは何故だろう。
望まない明日が来なくて、また違う人生がどこからか始まるなんていとうのはやはりちょっと虫のいい話なのだろう。

喪主、大ベテラン歌手と、もっとお会いできたらよい京都の方と、すばらしいピアニストと、佐々木先生も太鼓判を押す素敵な門下生の夫君と、たまたま近くに立っていた僕と6人で出棺のお手伝いをさせていただいた。
僅かな道のりを先生と共にいることが出来、最後にご一緒できて本当に光栄だと感じている。

帰りに参列のお礼の一つとしていただいた冒頭の本を少し読んだ。
戦時中から終戦にかけてのお話が胸を打つ。

このところで思い出すのは、妙に静かで平和な出来事である。
ある日のこと、私は庭先に持ち出した七輪に火を燃やし、
一緒に住んでいた生徒さんの作った食物を暖めていた。
団扇で七輪に風を送りながら鼻歌を歌う私自身の姿とその歌を、
私は今もはっきりと思い出すことができる。
リヒャルト・シュトラウスの「明日」という曲は、こう始まるのである。

  かくて、太陽は明日もまた輝く    (本文p26より)

Rondine al nido

今年は桜をずいぶん長く楽しめたこともあって
4月に入っても肌寒い日があったように思う。
太陽の光が桜を散らすようにして暖かくなり
青い空と同じように晴れ晴れしく思っていると
クィルルル
小さなのどを鳴らして気持ちよく空を駆け抜けたのは燕だった。
ずいぶん早い気がしたけれど
清々しいその滑空を見るのはとても気持ちが良かった。

5月に入って、季節を間違えた暑さで燕の姿が消えた。
こんなこともあるのか、と寂しく思っていたのだけれど
このところの‟例年並み”の気温で再び燕の声を聴いた。
あの鳴き声は、まだ向こうは涼しかったからさ、なんて風に聞こえてくる。

燕(rondine)を伊和辞典で引くとgiacca a coda di rondine(燕尾服)
nido di rondine(燕の巣)が出てくるしuna rondine no fa primavera
(燕が一羽来たからといって春になったとは言えない;一事をもって早合点するな)
ということわざまで出てくる。
春の訪れのシンボルとして扱われ、東京と比べると1カ月半ほど早いのか
彼らがやってくるのは3月の末くらいなのだそうだ。
なるほど、忘れな草《Non ti scordar di me》で出てくる歌詞では
「燕がいなくなったのに太陽がない僕の故郷は寒い」
(太陽=恋人、愛する人がいなくて僕はとてもつらい)と言っている。

再びあの小さなかわいらしい鳴き声を聞いて、作っておいた巣にまた帰ってきたのか、
と思っていたら、ふとある曲が頭の中に流れた。
Rondine al nido「巣に戻る燕」
Vincenzo de Crescenzoが作曲して、たくさんの人が歌っている曲であるし、
僕もいつか歌ってみたな、と思っていて叶えられないでいる歌の一つだ。
これもまた寂しい曲で、
「燕は古い塔の下にアーモンドの花を開かせるために山や海を越えて帰ってくるのに
あなたは帰ってこない」
と嘆くのだ。
爽やかな、夏の始まりの少し前、きらきらと新しい緑があふれるこの時期に
まぁそんな曲ばっかりで、僕はイタリアの歌が大好きなのである。