写真のこと 荒木経惟

「東京墓情」という荒木経惟の写真展に行った。
銀座にあるシャネルネクサスホールで今日まで行われていたもので、昨年、フランス・パリにある東洋美術を扱うギメ美術館での展示にシャネルが協賛したことから、今回の日本での展示も実現したという。
内容は荒木経惟の撮り下ろしを含む写真群と、ギメ美術館が所蔵する幕末、明治初期の日本を残した写真を荒木自身が選びだしたものと併せての展示で、中々に興味深いものだった。
原宿での「淫春」、今回の「東京墓情」、オペラシティでの「写狂老人A」、写真美術館での「センチメンタルな旅1971ー2017」と春から立て続けての展示があり、後ろの二つは観に行くのがとても楽しみだ。
77歳になっても多作ぶりは変わらず、作風を変化させながら、また彼の内部で写真に、被写体に対峙する力が対流するようにエネルギーが満ちている。

 僕は写真が好きである。
撮りたい欲が最初だったと思うが、見ることに関して言えば、ファッション雑誌や写真誌から興味を持ち始め、作品としてギャラリーや美術館を回ることになったのは10年くらいになるかと思う。
荒木作品に関していうと、ヌードや緊縛といった僕にとって取っつきにくい作品からもっと中に入るには時間がかかって、なるほどと思い立って写真集を買おうとしてもすぐに新しい作品が湧き出してきて、ギャラリーや本屋でページをめくるだけになってしまう。
だけど、彼の書く文章やインタヴューがとても面白くて、何だかんだ写真に関する本の中では「アラーキーもの」は一番多かったりする。

 僕は彼の作品の中で漂っている寂しさを愛している。
愛している、というとちょっと大げさかもしれないし、何と表したらいいのかと思ってふいと出た言葉でもあるので自分自身の気持ちをフォローできていないなと感じてしまうが、そうとしか言えない。
人懐っこさともいえるだろうし、何か気恥ずかしさを写真家自身が感じているのもあるのだろうけど、もっと奥深い、真っ暗な闇の中で感じている寂しさから被写体に向かって光を当てていてる姿。
それは最初に発表した「さっちん」から妻である陽子や、飼い猫チロを撮ったもの、著名人を撮ったポートレート、ヌードや緊縛までもその愛すべき寂しさから僕の心は揺れる。

 一度だけお会いしたことがある。
竹橋にある東京国立近代美術館で日本の近現代美術を網羅した大きな展示で、草間彌生なども見かけたので、きっと何かのレセプションで来館されていたのだと思うが、おひとりで美術館の外のベンチに座っていらっしゃった。
勇気を振り絞って握手をしてもらった時
「なんだよ、俺?俺でいいのかよ?ー弱っちゃうなー」
と照れながらしっかりと硬い職人のような手で握手をしていただいた。
その時に漂った彼の気恥ずかしさの香りが作品から感じるのは、僕がちゃんと写真を見られてないってことかもしれないな。

東京・春・音楽祭オンデマンド

この春に参加した、東京・春・音楽祭2017のオンデマンドが始まりました。
以下からご視聴下さい。
東京・春・音楽祭2017オンデマンド

(僕は【1】【2】のシューベルトに関連する合唱曲に出演していました。)

東京・春・音楽祭は2005年の東京オペラの森を前進とした、東京、上野公園を舞台にした音楽祭で2009年から始まりました。
演奏会形式によるヴァーグナー作品公演や、オーケストラ、リサイタルや公園内の美術館、博物館でのコンサートが毎年開催されています。
バックアップ企業のIIJが音楽配信に力を入れていることもあり、数年前より期間限定でその年のコンサートを動画配信しています。
幸いにも何年かこのコンサートに合唱で参加していますが、稽古や本番などで気になるリサイタルや美術館でのコンサートなどが聴けず残念に思っていたので、このオンデマンドはありがたく思っています。

来年もたくさんの方が東京・上野で桜に負けない、色とりどりの音楽と出会えますように。

音の姿

音を感じることの表現は結構人それぞれで、
純然と耳で聴くとする人は多いだろうし、匂いがするという人もいる。
僕にとって音は見えるものでもある、と感じている。

初めて音を「見た」記憶ははっきり覚えていて、高校生の時にウラディーミル・アシュケナージのピアノリサイタルを聴いた時だ。
当時、音楽科のある学校に通ってはいたものの、ピアノは全くもってひどい出来で、アシュケナージを聴きに行ったのも、音楽オタクの同級生の後をひっついてスーパースターに一目会う、というミーハー気分一心だった。
(自治体の助成もあって、いくら有名な演奏家だとしても1000円か2000円くらいで
聴けたり観られたりしたものだから、ミーハー気分は随分味わった。)

たしかプログラムはモーツァルトで、1500人以上入る県民大ホールの舞台にピアノがひとつ。
ピアニストはひょいひょいと軽快に歩いて鍵盤に触れるまでとても早かったのを覚えている。
弾き始めた途端、きらきらとした音の粒がピアノから沸き立ち、ホール一杯に広がった。
音の珠は大きかったり、小さかったり、柔らかく舞ったり、細かい粒で限りなく吹き出したり様々な表情に見えた「音」は僕をかすめたり、ぶつかったり、包んだりもした。
もうずいぶん前の事なのに、思い出すだけで今もとても幸せな出来事だ。

先日、知り合いの俳優が出演する舞台を観に行った。
既成の台本に新たに付曲した音楽劇ということで、歌であり、台詞でもある言葉に音楽で装飾が施され、素敵な舞台作品だった。

面白いなと思ったのは、俳優から放たれる言葉だ。
俳優は一つの言葉に形や大きさ、その感触、温度、いろいろなものを与えていた。
台詞はもちろん、歌もそうして歌うものだから、とても肉感的なものとして体感することが出来た。
自分が歌を歌う時は、声が、音の高低が、とかいろんなことに囚われてしまいがちで、歌の本来の形を見失ってしまうことが多い気がする。
歌を作るもののひとつひとつに豊かさを与えて歌うことが出来たら、そんな素晴らしいことはないだろうな、と思う。

思うことは山ほどで、なかなか身に付くほどではないが、自分と向き合う時間を出来るだけ増やしたいものだ。

竜頭を巻いて七月

学生時代から使っている機械式腕時計は曜日と日にちを一緒に刻んでくれる。
時計の短針がぐるっとふた回りする間、カレンダーは曜日と日にちが別々に、
いつの間にか変わっている。
ただ、ありがたく31日まで回る時計のカレンダーは、6月のような31日を持たない月末から日をまたいでも遠慮なく31と示すのだ。
7月の最初の儀式は竜頭を半分浮かせ、曜日が変わってしまわない様に31日を音もたてずにやり過ごす。
このひと手間は、時間に支配されてないと思いたい僕の一つの抵抗であり
道具に愛着を持たせてくれるただ単純な行為でもある。

金曜日にあったシャンソンの発表会の司会、歌を終え、かつての懐かしさもあるけれど、うまく歌う事に楽なものなどなく、やっぱり反省もそれなりに持つものとなった。
クラシック・・・という言い方しかできないが、僕が普段経験する演奏会の舞台にはピアノがあったりオーケストラがあったりするのだけれど、ポピュラー(といっていいのか)音楽の場合、ある程度の大きさのホールになればしっかりした音響機器を入れて、ピアノやらベースという僕にとって馴染みある楽器にもマイクが差し込まれ各々に聴こえるためのカエシの音響チェックも入念に行う。
昔からそれにはなんだかよくわからないでいるので、いつもと変わらないように歌って、すべて音響さんにお任せすることになるのだけれど、本来そうではなく、自分の理想の聞こえ方を再現してくれるために専門家がいるわけで、そこには歌手と音響技師との相性はあるものの、歌手自身に確固たる美学がないといけないのである。

7月7日にも同様のコンサートがあり、やっぱり司会と歌を歌うのだけれど、きっと僕は何にも考えられずに、、、いや美学よりももっと切羽詰まった問題と向き合うのだ。

歌う機会をいただき、ありがたい月の初め。
そして変わらず淡々とオーデションの準備や夏が終わった頃のための稽古も始まる。
メールでもらった仕事のスケジュールを手帳に書き込みながら、真っ白でなくなった安堵があるものの、手帳を埋めるための予定でなく、自分であるための時間を作る予定として書きこもう。

ムジカ・ノヴァンタ・ノーヴェ終演‼ありがとうございます

25日のヤマハホールでのコンサートを無事に終えました。
朝からの雨にお客様の足元を心配しましたが、お昼には止んだようで良かったです。
プログラムは以下の通り

写真で失礼します。

45回、変わらぬデザイン。今年はライムのような鮮やかな緑
企画から出演者の変更や曲目の変更、調整などありましたが、
それぞれの曲と歌手がとても良く合っていた、とお客様から言われた事がとてもうれしかったです。
選曲、配役?して下さったのは先生なので、僕が喜ぶところではないかもしれませんが、
曲の良さを少しでも近く寄り添って、表現できたのかな、と思える言葉だと思っています。

休憩を入れて2時間半の長いコンサートでしたが、初めてお誘いした方にも喜んでいただけて良かったです。
自分自身と音楽との対話も大事ですが、やはりお客様との呼吸で音楽は一層香り立つものになるな、と感じました。

ご来場いただきましたお客様に改めまして感謝申し上げます。
さぁ、また音楽と向き合って歌っていこう‼‼‼