竜頭を巻いて七月

学生時代から使っている機械式腕時計は曜日と日にちを一緒に刻んでくれる。
時計の短針がぐるっとふた回りする間、カレンダーは曜日と日にちが別々に、
いつの間にか変わっている。
ただ、ありがたく31日まで回る時計のカレンダーは、6月のような31日を持たない月末から日をまたいでも遠慮なく31と示すのだ。
7月の最初の儀式は竜頭を半分浮かせ、曜日が変わってしまわない様に31日を音もたてずにやり過ごす。
このひと手間は、時間に支配されてないと思いたい僕の一つの抵抗であり
道具に愛着を持たせてくれるただ単純な行為でもある。

金曜日にあったシャンソンの発表会の司会、歌を終え、かつての懐かしさもあるけれど、うまく歌う事に楽なものなどなく、やっぱり反省もそれなりに持つものとなった。
クラシック・・・という言い方しかできないが、僕が普段経験する演奏会の舞台にはピアノがあったりオーケストラがあったりするのだけれど、ポピュラー(といっていいのか)音楽の場合、ある程度の大きさのホールになればしっかりした音響機器を入れて、ピアノやらベースという僕にとって馴染みある楽器にもマイクが差し込まれ各々に聴こえるためのカエシの音響チェックも入念に行う。
昔からそれにはなんだかよくわからないでいるので、いつもと変わらないように歌って、すべて音響さんにお任せすることになるのだけれど、本来そうではなく、自分の理想の聞こえ方を再現してくれるために専門家がいるわけで、そこには歌手と音響技師との相性はあるものの、歌手自身に確固たる美学がないといけないのである。

7月7日にも同様のコンサートがあり、やっぱり司会と歌を歌うのだけれど、きっと僕は何にも考えられずに、、、いや美学よりももっと切羽詰まった問題と向き合うのだ。

歌う機会をいただき、ありがたい月の初め。
そして変わらず淡々とオーデションの準備や夏が終わった頃のための稽古も始まる。
メールでもらった仕事のスケジュールを手帳に書き込みながら、真っ白でなくなった安堵があるものの、手帳を埋めるための予定でなく、自分であるための時間を作る予定として書きこもう。

ムジカ・ノヴァンタ・ノーヴェ終演‼ありがとうございます

25日のヤマハホールでのコンサートを無事に終えました。
朝からの雨にお客様の足元を心配しましたが、お昼には止んだようで良かったです。
プログラムは以下の通り

写真で失礼します。

45回、変わらぬデザイン。今年はライムのような鮮やかな緑
企画から出演者の変更や曲目の変更、調整などありましたが、
それぞれの曲と歌手がとても良く合っていた、とお客様から言われた事がとてもうれしかったです。
選曲、配役?して下さったのは先生なので、僕が喜ぶところではないかもしれませんが、
曲の良さを少しでも近く寄り添って、表現できたのかな、と思える言葉だと思っています。

休憩を入れて2時間半の長いコンサートでしたが、初めてお誘いした方にも喜んでいただけて良かったです。
自分自身と音楽との対話も大事ですが、やはりお客様との呼吸で音楽は一層香り立つものになるな、と感じました。

ご来場いただきましたお客様に改めまして感謝申し上げます。
さぁ、また音楽と向き合って歌っていこう‼‼‼

日々更新に生きる

特段新しいことでなくて、既に知っていると思っていることだとしても
何かの折に、それを覆す、またはそんなに大げさなことではないにしても
あぁ、こういう事だったのかと思わされる事がある。
再び読む本から、ありふれた言葉の二つ目の意味から、通り慣れた道と知らない道が繋がっていることから。

楽譜を見たり、練習したりしていても(それをもう何年も繰り返していても!)
旋律の関係性や、技術的なことで気付かされることは毎日だし、
10年前に言われていたことが、ある日突然耳元で囁くようなこともある。
演奏会の準備で先生のお宅へ伺い、レッスンを受けたり、お話を聞いたり、
知り合って何年にもなる門下の先輩方と話し合っていると、
今の自分を“更新”すると共に、昔の自分をきれいにしているようにも感じる。
きれいにするとは、美化することでもなく、整理するとはまた印象の違う、磨くと言う方がいいだろうか。
日曜日に迎えるコンサートの準備は、新しい環境で作る刺激とはまた違った日々になっている。

ニュースで知った小林麻央さんの訃報。ご家族はさぞ辛いことだろう。
昨年、闘病の中、bbcの“100women”選出に際し寄稿した彼女の文章を思い出した。
がんと闘病の小林麻央さん、BBCに寄稿 「色どり豊かな人生

彼女が自分と、そして家族と向き合って改めて知った喜びがあったように、
各々が持っているだろう強さ、優しさ、身近なものへの繋がりというものに
もっと自身で光を当てて生きられたら、きっと眩しいくらいに彩られた世界になるんじゃないか。

真っ青な空と、暑い暑い今日の日に僕は生きていることを思った。

演奏会に向けて!

6/25のコンサートに向けて出演者一同練習に励んでおります。

ノヴァンタノーヴェの演奏会は、イタリアの声楽曲を取り上げて演奏している。演奏者は僕が大学時代からお世話になっている三池三郎、弘美両先生とその門下生で構成されていて、聴衆に対する音楽の一面もあれば、演奏者自身の音楽への理解を深める面も多分にある。

毎年テーマを決めて、それに沿った作曲家、作品を選び演奏するわけだが、オペラ、歌曲、宗教曲、そして時代に問わずイタリアの音楽は美しいな、と常に感じている。

昨年は1880年代に生まれた作曲家に中心にしたプログラムで、なかなかに難しい曲が多かったもののロマン派の作品に比べると聴きなじみがあるわけではないレスピーギ、ザンドナイ、ピッツェッティ等の作品の素晴らしさの一片を伝えることに出演者一同努めた。
45回目になる今回のプログラムは、副題にある「独唱と二重唱400年のあゆみ」の通り、
モンテヴェルディ、ロッティ、ヴィヴァルディ、パイズィエッロ、モーツァルト、ロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティ、メルカダンテ、ヴェルディ、チレア、モルタリといった16世紀から20世紀の作曲家の作品からイタリアの音楽の400年を感じていただこうというプログラムになっている。

イタリア音楽=オペラというイメージはやはりそのまま事実でもあるのだけれど、作曲家は大きな舞台作品と共にサロンで演奏するような小品もまたたくさん作っていて、それでいても”らしさ”を失わない。

ヴェルディの歌曲をとっても、その舞台作品の壮大さ、劇的なものは4ページの1曲になっても何1つ失うことがなく、より凝縮したものとして感じることもできる。

またオペラというジャンルひとつにとってもその成り立ちに大きな物語があるように、それを作っている独唱、合唱、器楽曲それぞれにそれぞれが刺激し合う歴史があって、それが育んだ土はイタリアだ、と言い切ってもとやかくいう人は少ないんではないだろうか。

大学に入った時先生に最初に言われた事は、音楽はその国の文化の1つの側面であるから音楽を勉強するという事は歴史、文学、美術、料理、生活様式も含めて多面的に勉強する事なんだよ、というのは自分の底辺に据えられているな、とノヴァンタ〜に参加する度に確認している。

あと2週間と少しほどであるが、また少し追い込んでより深い理解と良い演奏につなげていきたい。

そして、1人でも多くの人に多様な音楽の楽しみを感じてもらえたらという希望を持って、せっせとお手紙書いたりメールを送ったりと集客の努力もしなければ!

カッターい文章になってしまったが、6/25はヤマハホールでお待ちしております!

ひとつひとつ

先週末、取手混声合唱団とのモーツァルト《レクイエム》を終えた。
なんだかずっと緊張していて、舞台に立つとGPでも体が固くなってしまって自分の体でないみたい。
隣に座る大学の同期であるバスのソリストからアドバイスを受けながら、もしくは緊張している僕のモノマネをされながら、なんとか本番は歌い終えることが出来た。

合唱とオーケストラの響きの中にどっぷり浸かりながら、どうにかうまく歌うことを頭で巡らせていたが、
そうか僕はこの音楽の一つのピースなんだ、と緊張のあまり忘れていた事が目の前を明るくしてくれた。
緊張とは厄介なものだけれども、与えてくれるものあるんだな。

自分の心が開かれればたくさんのものが聴こえてくるもので、
オーケストラの方々は合唱団の声の動きをこちらに耳が見えるほどよく聴いてらっしゃるし、
指揮の山田先生の柔らかい面持ちだけでなく、しっかりと音楽をつかむ呼吸を与えてくれているし、
優しいソリスト達はアンサンブルの道筋をぎこちなくしている僕と一緒に歩いてくれたし、
何より、演奏の大方を占める合唱が美しい音楽の形を作っていた演奏であったと感じた。

音楽は聴こえるものでもあるし、見えるものでもあると思っているのだが
美しい音楽の形とは、心が向かう姿のことをいうのだろうな。
この話はおいおい。

ひとつ大事な演奏が終わり、そしてまたひとつに向けて進もうと思う。
ようこそ、6月。