夏をめぐる

去年の夏、母方の祖母が亡くなった。
離れた所に住んでいたという一応の理由をつけてみるが、亡くなる年の春に家族で会いに行ったのが最後だった。祖母は自分の子供以外、席を外した順にあの人は誰か?と聞く以外はゆっくりでも歩き、楽しく食べたり喋ったりしていたので、きっと家族の楽しい思い出を思い巡らし、長らく離れていた祖父にかれこれ話しているに違いない。

一周忌を終え、僕の記憶のうちの祖父母の背景である家に一泊し、その足で父方の祖父母のお墓へ参った。墓守りでもある叔父やいとこに会うのも久し振りで、その内のひとりは15年は経つだろう再会だった。祖父母がいる、ここへ来るのは初めてで、小高い場所にあって夏のきつい日差しを和らげる風があり、清々しく気持ち良かった。

子どもの頃、夏が来ると父母の田舎へ行くことがうれしかった。
土地のおいしいものが食べられたり、いとこ達を相手に遊んだり、久し振りの景色の中で冒険をしたり、これらは今でも宝物でこれからも汚れることのない思い出である。
もうひとつ、思い出として残っているのが自分の親の姿だ。いつもは、当然のことながら僕から見れば親としてあるわけだが、自分の実家で、親の前で、兄弟の前でいる姿はやはりいつも見る姿と違っていて、柔らかで、子供の頃の様子が少しでも残っているのだろうかと想像した。
それらの記憶と、この夏の二つの家族を眺めた事が何故だかシンクロして不思議な気分がする。昔見た景色に、今の景色をコラージュするように、そしてそれは僕の場合、亡くなった祖父母が核となって輪を重ねて厚く大きくなり、数多の記憶の星々が作る小宇宙なのだ。

そんな幸せな思いを巡らせたものだから、夏の夜空にきっと輝いている星々は、たくさんの人の小宇宙が連なっているその姿に思える。

翼を持ちて

先週末の土曜日、Operaliaというコンクールの本選をインターネット中継で観た。
プラシド・ドミンゴ国際オペラコンクールという名前で25年前から行われていて、いつの間にやらOperaliaという洒落た名前がついている。「オペラ」と、オペラの中で一人で歌われる「アリア」、そして翼という意味のイタリア語の古い言い方「alia」をかけていて、オペラの翼とでも言ったらいいのだろうか。

それぞれの歌手のバックグラウンドは分からないが、もうすでにキャリアを十分に積んでいて、更なる高みを目指す歌手、これから世界の扉に手をかけようとする歌手と、様々であろう。年齢も20代前半から30歳までとわりに幅広く、文字通り世界中から集まっていて、セミファイナルでは日本人の加藤のぞみさんが素晴らしい歌を歌われていた。
ちなみに今年の1位は女声部門でAdela Zahaide,Soprano(ルーマニア)男声では Levy Sekgapapane,tenor(南アフリカ)が受賞した。
この2人に限らず、ファイナル、セミファイナルに出場した歌手(だけではないのはもちろん)が世界の檜舞台に立つ日はもうすぐそこだ。

その次の日の朝だったか、仕事へ向かっていると通りかかったマンションの駐車場から
10羽以上の燕が一斉に羽ばたき、僕の頭上で乱れつつも勢いよく旋回していた。
巣に戻ろうとするが、そうはせずにまた大きく円を描いてさっきよりも高く昇り旋回を繰り返す。
東京ではきっと最後の燕だ。
あんなにもたくさんの旅立ちを見たのは初めてだった。
飛び方を覚えたてであるけれど、今飛び立つというあの勢いはこの時にしか感じられない大きなエネルギーを持っている。
世界へ羽ばたく彼らの歌は、ステージで毎日歌われている歌にはない可能性という瑞々しさが含まれていた。
それは選ばれた人だけが持つものなのだろうか。
どこでどんな歌を歌おうが、自分の中に可能性や新鮮さ、瑞々しさを感じよう、
と飛び立つ燕を眺めながら大きな希望と少々のセンチメンタルを感じたのだ。

写真のこと 荒木経惟

「東京墓情」という荒木経惟の写真展に行った。
銀座にあるシャネルネクサスホールで今日まで行われていたもので、昨年、フランス・パリにある東洋美術を扱うギメ美術館での展示にシャネルが協賛したことから、今回の日本での展示も実現したという。
内容は荒木経惟の撮り下ろしを含む写真群と、ギメ美術館が所蔵する幕末、明治初期の日本を残した写真を荒木自身が選びだしたものと併せての展示で、中々に興味深いものだった。
原宿での「淫春」、今回の「東京墓情」、オペラシティでの「写狂老人A」、写真美術館での「センチメンタルな旅1971ー2017」と春から立て続けての展示があり、後ろの二つは観に行くのがとても楽しみだ。
77歳になっても多作ぶりは変わらず、作風を変化させながら、また彼の内部で写真に、被写体に対峙する力が対流するようにエネルギーが満ちている。

 僕は写真が好きである。
撮りたい欲が最初だったと思うが、見ることに関して言えば、ファッション雑誌や写真誌から興味を持ち始め、作品としてギャラリーや美術館を回ることになったのは10年くらいになるかと思う。
荒木作品に関していうと、ヌードや緊縛といった僕にとって取っつきにくい作品からもっと中に入るには時間がかかって、なるほどと思い立って写真集を買おうとしてもすぐに新しい作品が湧き出してきて、ギャラリーや本屋でページをめくるだけになってしまう。
だけど、彼の書く文章やインタヴューがとても面白くて、何だかんだ写真に関する本の中では「アラーキーもの」は一番多かったりする。

 僕は彼の作品の中で漂っている寂しさを愛している。
愛している、というとちょっと大げさかもしれないし、何と表したらいいのかと思ってふいと出た言葉でもあるので自分自身の気持ちをフォローできていないなと感じてしまうが、そうとしか言えない。
人懐っこさともいえるだろうし、何か気恥ずかしさを写真家自身が感じているのもあるのだろうけど、もっと奥深い、真っ暗な闇の中で感じている寂しさから被写体に向かって光を当てていてる姿。
それは最初に発表した「さっちん」から妻である陽子や、飼い猫チロを撮ったもの、著名人を撮ったポートレート、ヌードや緊縛までもその愛すべき寂しさから僕の心は揺れる。

 一度だけお会いしたことがある。
竹橋にある東京国立近代美術館で日本の近現代美術を網羅した大きな展示で、草間彌生なども見かけたので、きっと何かのレセプションで来館されていたのだと思うが、おひとりで美術館の外のベンチに座っていらっしゃった。
勇気を振り絞って握手をしてもらった時
「なんだよ、俺?俺でいいのかよ?ー弱っちゃうなー」
と照れながらしっかりと硬い職人のような手で握手をしていただいた。
その時に漂った彼の気恥ずかしさの香りが作品から感じるのは、僕がちゃんと写真を見られてないってことかもしれないな。

東京・春・音楽祭オンデマンド

この春に参加した、東京・春・音楽祭2017のオンデマンドが始まりました。
以下からご視聴下さい。
東京・春・音楽祭2017オンデマンド

(僕は【1】【2】のシューベルトに関連する合唱曲に出演していました。)

東京・春・音楽祭は2005年の東京オペラの森を前進とした、東京、上野公園を舞台にした音楽祭で2009年から始まりました。
演奏会形式によるヴァーグナー作品公演や、オーケストラ、リサイタルや公園内の美術館、博物館でのコンサートが毎年開催されています。
バックアップ企業のIIJが音楽配信に力を入れていることもあり、数年前より期間限定でその年のコンサートを動画配信しています。
幸いにも何年かこのコンサートに合唱で参加していますが、稽古や本番などで気になるリサイタルや美術館でのコンサートなどが聴けず残念に思っていたので、このオンデマンドはありがたく思っています。

来年もたくさんの方が東京・上野で桜に負けない、色とりどりの音楽と出会えますように。

音の姿

音を感じることの表現は結構人それぞれで、
純然と耳で聴くとする人は多いだろうし、匂いがするという人もいる。
僕にとって音は見えるものでもある、と感じている。

初めて音を「見た」記憶ははっきり覚えていて、高校生の時にウラディーミル・アシュケナージのピアノリサイタルを聴いた時だ。
当時、音楽科のある学校に通ってはいたものの、ピアノは全くもってひどい出来で、アシュケナージを聴きに行ったのも、音楽オタクの同級生の後をひっついてスーパースターに一目会う、というミーハー気分一心だった。
(自治体の助成もあって、いくら有名な演奏家だとしても1000円か2000円くらいで
聴けたり観られたりしたものだから、ミーハー気分は随分味わった。)

たしかプログラムはモーツァルトで、1500人以上入る県民大ホールの舞台にピアノがひとつ。
ピアニストはひょいひょいと軽快に歩いて鍵盤に触れるまでとても早かったのを覚えている。
弾き始めた途端、きらきらとした音の粒がピアノから沸き立ち、ホール一杯に広がった。
音の珠は大きかったり、小さかったり、柔らかく舞ったり、細かい粒で限りなく吹き出したり様々な表情に見えた「音」は僕をかすめたり、ぶつかったり、包んだりもした。
もうずいぶん前の事なのに、思い出すだけで今もとても幸せな出来事だ。

先日、知り合いの俳優が出演する舞台を観に行った。
既成の台本に新たに付曲した音楽劇ということで、歌であり、台詞でもある言葉に音楽で装飾が施され、素敵な舞台作品だった。

面白いなと思ったのは、俳優から放たれる言葉だ。
俳優は一つの言葉に形や大きさ、その感触、温度、いろいろなものを与えていた。
台詞はもちろん、歌もそうして歌うものだから、とても肉感的なものとして体感することが出来た。
自分が歌を歌う時は、声が、音の高低が、とかいろんなことに囚われてしまいがちで、歌の本来の形を見失ってしまうことが多い気がする。
歌を作るもののひとつひとつに豊かさを与えて歌うことが出来たら、そんな素晴らしいことはないだろうな、と思う。

思うことは山ほどで、なかなか身に付くほどではないが、自分と向き合う時間を出来るだけ増やしたいものだ。