初日です

参加している舞台作品、ヴァーグナー作曲『神々の黄昏』の初日が開けた。
前の記事でも書いたが、新国立劇場開場20周年記念公演となり3シーズンに渡る”指輪”4部作の最終回となる。
今日から計6回の公演をお客様に楽しんでもらえるのは本当に喜ばしいことと思う。

僕は今シーズンは新国立劇場合唱団のメンバーではなく、今回の舞台は二期会合唱団として参加している。
劇場の合唱団だけでも60人弱の男声合唱が参加しているが、それに加わるというのは5時間という演奏時間もそうだが、その分やはり合唱の規模だけでも大掛かりな作品ということがお分かり頂けると思う。

本番に至るまでの、今までのリハーサルに取り組むキャスト陣の姿は素晴らしくて、役に対して、音楽に対して常に挑戦的で、そして何より創造的なのである。
同じ場面を稽古で繰り返すことがあったが、全てで同じ事をすることがなく、今の音楽の純度を高めていく。
淀みがなくなり、役と歌手の意思が透け通ると、そこに音楽の光が差し込み、いろいろな色の光として輝くのを毎回楽しみにしていた。
あぁ、やっぱりこの時間が恋しいのに、、、終わってしまうのだな。。。

といっても本番が始まると、オーケストラもソリストも、もちろん僕たちもまた違う次元へと移行するわけなので寂しがってる暇はなく、置いてきぼりを食らわないように、しっかりと立っていなくては。

千穐楽まで怪我なく、事故なく、素晴らしい音楽と共に過ごせるように日々を過ごしていこう。

これまたキリ良く初日が一日だ。


オペラ劇場の楽屋口


夜の新国立劇場外観

僕とRichard Wagner

今、参加している舞台作品は新国立劇場で10月1日に初日を迎えるヴァーグナー作曲『神々の黄昏』という作品で、開館20周年という記念すべきシーズンの開幕作品である。
そしてこの『神々の〜』は、4つの作品で構成される『ニーベルングの指環』の最終作品で、同劇場が2015年シーズンから取り組んできた全作上演の最終回にあたる。
いろいろと記念的な事が重なる公演に参加出来ることをとても光栄に思う。

ヴァーグナーの作品は団体問わず、合唱としていくつかの作品に携わっているが、その最初が1998年の二期会公演『タンホイザー』で、初めて携わる大きな公演で、しかも場所は今回と同じ新国立劇場、合唱指揮も同じく三澤洋史先生であった。
当時、僕は大学三年で、とにかく大きな公演のため、二期会合唱団だけでなく、当時大学の合唱の授業を担当していた三澤先生が三年生を中心に男声20人ほど大学から引っ張ってきた。『タンホイザー』は合唱の量がとても多く、そして大変難しいことに加え、プロの中に学生身分が入るという緊張と合わせてたくさんの思い出がある。
舞台の製作過程、所作、衣装の扱い、楽屋マナー等々初めての事だらけで先輩方には大変なご迷惑をかけたのだろうと想像する。

ヴァーグナーと新国立劇場、、、というのは僕の初体験を思い出させるシチュエーションの重なりで、気分が高揚すると共に初心に帰るものでもある。

今回の舞台は、ヴァーグナー公演の殿堂”バイロイト音楽祭”で歌っている歌手が主要キャストで来日していて、その一声一声が体中を震えさせる。出演時間は演奏時間から考えればとても短いのではあるが、(なにせ4時間半の演奏時間!!)貴重な時間を過ごせることの喜びは何にも代えられないものになるだろう。
週末から本舞台に移っての稽古が始まる。
みんな怪我なく、病気もなく、ひとりもかけることなく舞台を終えることが出来ますように。

晩夏に寄せて

季節には香りがある。
めっぽう鼻が弱い僕がわかるのだからきっとあるのだ。
夏が残した太陽の残り香、たくさん降り注いだ陽の後に夕立を受けた土の香り、蝉の声の遮りがなくなった風が新しく生えた小さな野の草を揺らす匂い。
コンクリートの継ぎ目にしぶとく根を生やした緑しかなくても、どこからかそれらの香りが夏の終わりを知らせる。

どこで読んだか忘れたが、四季を言い表す中で夏だけが”終わる”のだそうだ。
春が終わる、とそんなさみしい事はまず言わないだろうし、冬は春がやってきて方々の雪を溶かしてしまうまで終われないから、なかなか宣言できない。

夏だけが終わるのだ。

終わりには何かと理由を探してしまう。
ただ終わったのだとしても、やり遂げたのか途中で手を離してしまったのか。
僕のせいなのか、あなたのせいなのか。
幸せすぎて、忘れてしまわなければならない思い出のために夏は終わるのだろうか。

まだ何の思いものせていない軽やかな秋の風に吹かれて、百日紅の花が雪のように落ちていく。
波打ち際で足元の砂を削いで行く波のように、溜まっては流れゆくのをしばらく眺めて、香りの枯れた、いやそれは香りを持っていたのか僕は忘れてしまった。

夏をめぐる

去年の夏、母方の祖母が亡くなった。
離れた所に住んでいたという一応の理由をつけてみるが、亡くなる年の春に家族で会いに行ったのが最後だった。祖母は自分の子供以外、席を外した順にあの人は誰か?と聞く以外はゆっくりでも歩き、楽しく食べたり喋ったりしていたので、きっと家族の楽しい思い出を思い巡らし、長らく離れていた祖父にかれこれ話しているに違いない。

一周忌を終え、僕の記憶のうちの祖父母の背景である家に一泊し、その足で父方の祖父母のお墓へ参った。墓守りでもある叔父やいとこに会うのも久し振りで、その内のひとりは15年は経つだろう再会だった。祖父母がいる、ここへ来るのは初めてで、小高い場所にあって夏のきつい日差しを和らげる風があり、清々しく気持ち良かった。

子どもの頃、夏が来ると父母の田舎へ行くことがうれしかった。
土地のおいしいものが食べられたり、いとこ達を相手に遊んだり、久し振りの景色の中で冒険をしたり、これらは今でも宝物でこれからも汚れることのない思い出である。
もうひとつ、思い出として残っているのが自分の親の姿だ。いつもは、当然のことながら僕から見れば親としてあるわけだが、自分の実家で、親の前で、兄弟の前でいる姿はやはりいつも見る姿と違っていて、柔らかで、子供の頃の様子が少しでも残っているのだろうかと想像した。
それらの記憶と、この夏の二つの家族を眺めた事が何故だかシンクロして不思議な気分がする。昔見た景色に、今の景色をコラージュするように、そしてそれは僕の場合、亡くなった祖父母が核となって輪を重ねて厚く大きくなり、数多の記憶の星々が作る小宇宙なのだ。

そんな幸せな思いを巡らせたものだから、夏の夜空にきっと輝いている星々は、たくさんの人の小宇宙が連なっているその姿に思える。

翼を持ちて

先週末の土曜日、Operaliaというコンクールの本選をインターネット中継で観た。
プラシド・ドミンゴ国際オペラコンクールという名前で25年前から行われていて、いつの間にやらOperaliaという洒落た名前がついている。「オペラ」と、オペラの中で一人で歌われる「アリア」、そして翼という意味のイタリア語の古い言い方「alia」をかけていて、オペラの翼とでも言ったらいいのだろうか。

それぞれの歌手のバックグラウンドは分からないが、もうすでにキャリアを十分に積んでいて、更なる高みを目指す歌手、これから世界の扉に手をかけようとする歌手と、様々であろう。年齢も20代前半から30歳までとわりに幅広く、文字通り世界中から集まっていて、セミファイナルでは日本人の加藤のぞみさんが素晴らしい歌を歌われていた。
ちなみに今年の1位は女声部門でAdela Zahaide,Soprano(ルーマニア)男声では Levy Sekgapapane,tenor(南アフリカ)が受賞した。
この2人に限らず、ファイナル、セミファイナルに出場した歌手(だけではないのはもちろん)が世界の檜舞台に立つ日はもうすぐそこだ。

その次の日の朝だったか、仕事へ向かっていると通りかかったマンションの駐車場から
10羽以上の燕が一斉に羽ばたき、僕の頭上で乱れつつも勢いよく旋回していた。
巣に戻ろうとするが、そうはせずにまた大きく円を描いてさっきよりも高く昇り旋回を繰り返す。
東京ではきっと最後の燕だ。
あんなにもたくさんの旅立ちを見たのは初めてだった。
飛び方を覚えたてであるけれど、今飛び立つというあの勢いはこの時にしか感じられない大きなエネルギーを持っている。
世界へ羽ばたく彼らの歌は、ステージで毎日歌われている歌にはない可能性という瑞々しさが含まれていた。
それは選ばれた人だけが持つものなのだろうか。
どこでどんな歌を歌おうが、自分の中に可能性や新鮮さ、瑞々しさを感じよう、
と飛び立つ燕を眺めながら大きな希望と少々のセンチメンタルを感じたのだ。