ジャック・プレヴェール

ひとり本屋を歩く時がある。
探している本があったり、ただ時間をつぶしたり、何かに出会うことを期待したり、ただその中を歩くのが気晴らしになるというくらいの僕の楽しみだ。
この間読んだ須賀敦子全集のひとつが気に入ったので、また違ったものがいいと大きな本屋を歩いていると、平積みの文庫本の中のひとつがスポットライトに照らされるようにあった。漫画にでも出てきそうな光景だが、そんなこともあるもんなのだな。
手に取ったのは『ジャック・プレヴェール詩集 小笠原豊樹訳』(岩波文庫)である。

この詩集訳本は前から探していたけれど、随分前に絶版していたらしく、ネットオークションで見つけたのは初版(1956年)の装丁に凝ったものだったが高価で手が出なかった。同じ岩波文庫の「フランス名詩選」の中に別の訳がいくつか所収されているが、かしこまった、きっちりした訳が僕にはしっくりくるものでなかった。今からは思い出せないが、どこかで見た小笠原豊樹訳でなければいけないのだ、と思う理由があったに違いない。
理由があったことを忘れたくらい時間が経ってしまって、そう言うしかないのがもどかしいけれど、詩集を開いてみると、やはりこの訳で読みたかったのだと思わせてくれる。今回手に取ったこの本は1956年のユリイカに所収されたものはじめ、以前の出版物からの収録を含めた文庫化で、実質復刻版といってもいい。

以前、「蛙たち」というシャンソニエ(シャンソンを聴くお店)で働いていた時に、日に一度は聴いたように思う「枯葉」の作詞家としてプレヴェールを知った。自分で歌う歌を探す内、作曲家ヨセフ・コスマとの組み合わせのこのあまりにも有名な曲に隠れた優れた曲がたくさんあることを知り、またその多くが彼の代表的な詩集「ことば(Paroles)」に収められていることも知った。フランス語詩を良く感じ取れるほど僕の語学力はないのだけれど、コスマがプレヴェールのParolesに与えた旋律が届けてくれる香りが心地よく、僕がシャンソニエに思ったより長居した一つの理由だったと思う。

プレヴェールの詩は、というより訳者の伝える言葉が、友人と話した他愛のない話の断片のようでもあり、自分がつぶやいた独り言を誰かに書き留められたかのような気分もするし、街の中のそこらから聞こえてきた言葉のコラージュのようでもあり、ウジェーヌ・アジェの写真の中に飛び込んだようでも、ロベール・ドアノーの撮った街でもあるような、ブラッサイの光景を脳に直接照射したようにも思える孤独と優しさと愛にあふれた音として届けられる。

僕の好きな詩を一篇

夜のパリ

三本のマッチ 一本ずつ擦る 夜の中で
はじめは君の顔を隈なく見るため
つぎはきみの目をみるため
最後はきみのくちびるをみるため
残りのくらやみは今のすべてを想い出すため
きみを抱きしめながら。
(「ことば」より96頁)
Paris at night

Trois allumettes une à une allumées dans la nuit
La première pour voir ton visage tout entier
La seconde pour voir tes yeux
La dernière pour voir ta bouche
Et l’obscurité tout entiere pour me rappeler tout cela
En te serrant dans me bras.
(「フランス名詩選」より97 351頁)

これはアニメーション映画監督高畑勲が全訳した「ことばたち」の解説注釈本表紙

10月も半ばを迎え

今年のお天気はなかなか夏を忘れられないらしく、東京は今日だって29度ほどあったそうだが、週末から忘れていたように季節が進み、寒さを感じるらしい。それは明日になってみないとわからないが、今夜の風はそのまま当たるにはずいぶんと冷たい。

現在参加している舞台は6回の公演のうち4公演を終え、長い長い音楽の旅もあと2回なのである。日本国内のオペラ公演では同じキャストで6回というのはまぁまぁ多い公演だと思うが、お芝居やミュージカルなどはとても長い期間公演をしていて、6回なんてなんぼのもんということになろうが、まぁ、舞台で巻き起こるものは同じな様でいて、全く新しい瞬間の繋がりであるから、回数や年数ではない、その1回なのだ。
舞台に足をかける緊張というのは新しいものにしていきたいと思う。

出番がない場面を舞台袖から観るのが昔から好きで、今回も舞台スタッフの方々に邪魔にならないようにこそこそと観ている。
長大な作品の中で出番はそれほど長くはないのと、待ち焦がれた歌手がすぐ傍で歌うというのにじっとしていられないという高揚と好奇心も多くある。これはひいきであるから仕方ないと思っていただきたいのだが、三幕、ステファン・グールドが舞台上で息を引き取るまで(ここは合唱の中から25人ほど出演して僕の出番ではない)物語の山場としても観ておきたい。。。

舞台袖というのは不思議な視点を持てる場所で、見る角度も客席とは違うし、もちろん舞台に立つ景色とも違う。
出来れば舞台に立って見る姿というのが歌手、役者として王道の視点だけれど、その視点だからこそ得られるもの、楽しみというのはやはりあると思っている。

そうこうしているうちにまだまだと思っていたコンサートだったり、オーディションだったり、いろいろ準備が始まり、舞台の感動に酔うのと違う人間がいなくてはならない。それらがちょっと慌ただしく感じるのは、随分暑さが長引いて季節の時差ボケなんだろうか。
来週の高松行きも楽しみだし(同じくらい緊張もしているけど)、2月に企画しているコンサートの詳細もブログで書けるくらいにしないと!

ひとつ季節が進むと、また違って景色を見つめられる。
その季節を待ちわびて今を過ごしていこう。

初日です

参加している舞台作品、ヴァーグナー作曲『神々の黄昏』の初日が開けた。
前の記事でも書いたが、新国立劇場開場20周年記念公演となり3シーズンに渡る”指輪”4部作の最終回となる。
今日から計6回の公演をお客様に楽しんでもらえるのは本当に喜ばしいことと思う。

僕は今シーズンは新国立劇場合唱団のメンバーではなく、今回の舞台は二期会合唱団として参加している。
劇場の合唱団だけでも60人弱の男声合唱が参加しているが、それに加わるというのは5時間という演奏時間もそうだが、その分やはり合唱の規模だけでも大掛かりな作品ということがお分かり頂けると思う。

本番に至るまでの、今までのリハーサルに取り組むキャスト陣の姿は素晴らしくて、役に対して、音楽に対して常に挑戦的で、そして何より創造的なのである。
同じ場面を稽古で繰り返すことがあったが、全てで同じ事をすることがなく、今の音楽の純度を高めていく。
淀みがなくなり、役と歌手の意思が透け通ると、そこに音楽の光が差し込み、いろいろな色の光として輝くのを毎回楽しみにしていた。
あぁ、やっぱりこの時間が恋しいのに、、、終わってしまうのだな。。。

といっても本番が始まると、オーケストラもソリストも、もちろん僕たちもまた違う次元へと移行するわけなので寂しがってる暇はなく、置いてきぼりを食らわないように、しっかりと立っていなくては。

千穐楽まで怪我なく、事故なく、素晴らしい音楽と共に過ごせるように日々を過ごしていこう。

これまたキリ良く初日が一日だ。


オペラ劇場の楽屋口


夜の新国立劇場外観

僕とRichard Wagner

今、参加している舞台作品は新国立劇場で10月1日に初日を迎えるヴァーグナー作曲『神々の黄昏』という作品で、開館20周年という記念すべきシーズンの開幕作品である。
そしてこの『神々の〜』は、4つの作品で構成される『ニーベルングの指環』の最終作品で、同劇場が2015年シーズンから取り組んできた全作上演の最終回にあたる。
いろいろと記念的な事が重なる公演に参加出来ることをとても光栄に思う。

ヴァーグナーの作品は団体問わず、合唱としていくつかの作品に携わっているが、その最初が1998年の二期会公演『タンホイザー』で、初めて携わる大きな公演で、しかも場所は今回と同じ新国立劇場、合唱指揮も同じく三澤洋史先生であった。
当時、僕は大学三年で、とにかく大きな公演のため、二期会合唱団だけでなく、当時大学の合唱の授業を担当していた三澤先生が三年生を中心に男声20人ほど大学から引っ張ってきた。『タンホイザー』は合唱の量がとても多く、そして大変難しいことに加え、プロの中に学生身分が入るという緊張と合わせてたくさんの思い出がある。
舞台の製作過程、所作、衣装の扱い、楽屋マナー等々初めての事だらけで先輩方には大変なご迷惑をかけたのだろうと想像する。

ヴァーグナーと新国立劇場、、、というのは僕の初体験を思い出させるシチュエーションの重なりで、気分が高揚すると共に初心に帰るものでもある。

今回の舞台は、ヴァーグナー公演の殿堂”バイロイト音楽祭”で歌っている歌手が主要キャストで来日していて、その一声一声が体中を震えさせる。出演時間は演奏時間から考えればとても短いのではあるが、(なにせ4時間半の演奏時間!!)貴重な時間を過ごせることの喜びは何にも代えられないものになるだろう。
週末から本舞台に移っての稽古が始まる。
みんな怪我なく、病気もなく、ひとりもかけることなく舞台を終えることが出来ますように。

晩夏に寄せて

季節には香りがある。
めっぽう鼻が弱い僕がわかるのだからきっとあるのだ。
夏が残した太陽の残り香、たくさん降り注いだ陽の後に夕立を受けた土の香り、蝉の声の遮りがなくなった風が新しく生えた小さな野の草を揺らす匂い。
コンクリートの継ぎ目にしぶとく根を生やした緑しかなくても、どこからかそれらの香りが夏の終わりを知らせる。

どこで読んだか忘れたが、四季を言い表す中で夏だけが”終わる”のだそうだ。
春が終わる、とそんなさみしい事はまず言わないだろうし、冬は春がやってきて方々の雪を溶かしてしまうまで終われないから、なかなか宣言できない。

夏だけが終わるのだ。

終わりには何かと理由を探してしまう。
ただ終わったのだとしても、やり遂げたのか途中で手を離してしまったのか。
僕のせいなのか、あなたのせいなのか。
幸せすぎて、忘れてしまわなければならない思い出のために夏は終わるのだろうか。

まだ何の思いものせていない軽やかな秋の風に吹かれて、百日紅の花が雪のように落ちていく。
波打ち際で足元の砂を削いで行く波のように、溜まっては流れゆくのをしばらく眺めて、香りの枯れた、いやそれは香りを持っていたのか僕は忘れてしまった。