アッシジへの旅

初めてイタリアへ旅をした15年前、3週間かけてミラノからローマまでを見て回った。その後おまけのようにパリに電車で向かったんだっけ。

ローマには1週間ほど滞在し、帰国した後のコンサートのための練習や、多くの見るもの(食べるもの)に時を過ごした。

そうだ、僕はアッシジを通り過ぎた、と思い出し次の朝、電車に乗った。

アッシジに向かう電車は始発なのに出発時間を過ぎてもやっぱり(イタリアだから)随分そのままで、そのうちに席が埋まり始め、ボックス席の僕の向かいにも1人の日本人が座った。襟の合わせの間から見える白いカラーできっと教会関係の方だろうとは思ったけれど、海外で、鉄道で、向かいに座った日本人が教会関係者である確率はどれほどあろうか。今でこそ思うが、その時はそこまで疑問を感じず、当たり前のように僕の前に座った、中年の男性とは行き先を同じくして電車は出発した。

これから君もアッシジに行くのだよね。今日は日曜日だから大事なミサがあるし、とてもいい経験になると思うよ、と言われた。

僕はジョットの『小鳥に説教をする聖フランチェスコ』とその一連の美術が見たいと思っていて、それは聖フランチェスコ大聖堂の壁に描かれているもので、ミサもそこで行われるという。

何時間くらいかかったのだろう。若い頃神学を学ぶためヨーロッパ各地を回り、今もアッシジに向かう男性の話は静かながらとても面白く、そして話す機会のなかった僕の初めてイタリアの話も聞いてくれた。

教会へ行くにはここでバスのチケットを買うんだ。と言って僕の分まで買ってくれて、教会のある丘の麓まで一緒にバスに乗った。

祭服の男と、貧乏旅行中の小汚い格好の僕は周りからどう見えたのだろう。

脇目も振らずまっすぐに丘の中腹にある大聖堂に向けて2人は歩き、僕はジョットの絵に向かって、彼は人に会うと言って聖堂の脇にある道を奥へと進んで行った。

オリヴィエ・メシアンが作曲した歌劇『アッシジの聖フランチェスコ』が演奏会形式で全曲演奏される。抜粋は過去にあったものの、日本で全曲が演奏されるのは初めてだという。僕は合唱で参加していて、4時間半その溢れる音の最中にいて、時に僕もその音になっている。

合唱だけで稽古をしている時は感じなかったが、ソリストやオーケストラととも稽古が始まると、15年前に丘の上から見た景色、音が体の中を駆け巡る。

1週間かけて3公演をシルヴァン・カンブルラン指揮の元、読売日本交響楽団、新国立劇場合唱団、びわ湖声楽アンサンブルと、そして聴衆とともに音楽を共にし、アッシジの空の下で鳥のさえずりを聴く。

今の内、その時。

いくつかの本番が終わったり準備をしたり、その内にまた本番があったりと、この1ヶ月を過ごしている。

ブログは書きかけのものばかりになって「下書き」欄にたまっていき、続きが書けるかなとフォルダーを開いてみるけれど、もうそんなノリではなくなっている。

僕はひと仕事の残り香を引きずってしまうのだけど、終わったばかりの心が熱いうちにパッと書いてしまうのが次の皿を美味しく食べるコツなのだろうか。いい表現が浮かばないが、要は今を味わうのがちょっと遅いのだ。

仕事に向かう途中はついついケイタイを見てしまう。読みかけの本がいつも鞄の中にあるのに。今は最果タヒという人の新しい詩集と対談集がある。

「夜空はいつでも最高密度の青色だ」という映画が半年ほど前にやっていたが、この詩人の同名の詩集が原作となって映画化され、上映が終わる際になって観にいったと思う。

新しい詩集「愛の縫い目はここ」も何がいいかと誰かに説明できるほどではないけれど、読んでみてください。とても面白い。

僕は本を多く読むわけではないが、今はとても言葉が面白い。質量があって、通り過ぎた言葉の破片が体の細胞の中に残って、僅かずつに積もって確かに満ちていく感覚が今の僕には新鮮だ。

読響『アッシジの聖フランチェスコ』の最後の稽古を終え、本番が日曜日に待っている。

これに書いてみたいこともあったけれどこれはまたまた次の機会だ。

瀬戸フィルティータイムコンサート終演

22日(日)に香川県高松市での”瀬戸フィルティータイムコンサート”が終演しました。

台風が迫る中、ご来場いただきましたお客様に感謝いたします。

高谷光信さん指揮、瀬戸フィルハーモニー交響楽団アンサンブルの演奏の中、僕はドニゼッティが作曲したオペラ《愛の妙薬》から”人知れぬ涙”とバーンスタイン作曲のミュージカル《ウェストサイドストーリー》より”マリア”を、そして共演のソプラノ森美由紀さんと《美女と野獣》から二重唱を歌いました。共演したすべての演奏者、そして運営するスタッフ、関係者の方々にこの場を借りてお礼を申し上げます。

瀬戸フィルの事務局に同じ大学出身で、同郷(もちろん!?)の河口君が声を掛けてくれて実現した10数年ぶりの今回の帰郷。

オーケストラの中にも高校時代の後輩やお客様の中にお世話になった先生方、中学校時代の先輩などたくさんの再会があり、そして終演後には同級生のちょっとした集まりがあったりと、帰らなかった分だけ喜びが積もり積もった滞在となりました。

季節外れの台風は大きなおまけだったのかな。

4歳から来場可能ということで未就学児でも楽しめるプログラム。指揮の体験もありました!

結構照明も凝ってましたね♪

ジャック・プレヴェール

ひとり本屋を歩く時がある。
探している本があったり、ただ時間をつぶしたり、何かに出会うことを期待したり、ただその中を歩くのが気晴らしになるというくらいの僕の楽しみだ。
この間読んだ須賀敦子全集のひとつが気に入ったので、また違ったものがいいと大きな本屋を歩いていると、平積みの文庫本の中のひとつがスポットライトに照らされるようにあった。漫画にでも出てきそうな光景だが、そんなこともあるもんなのだな。
手に取ったのは『ジャック・プレヴェール詩集 小笠原豊樹訳』(岩波文庫)である。

この詩集訳本は前から探していたけれど、随分前に絶版していたらしく、ネットオークションで見つけたのは初版(1956年)の装丁に凝ったものだったが高価で手が出なかった。同じ岩波文庫の「フランス名詩選」の中に別の訳がいくつか所収されているが、かしこまった、きっちりした訳が僕にはしっくりくるものでなかった。今からは思い出せないが、どこかで見た小笠原豊樹訳でなければいけないのだ、と思う理由があったに違いない。
理由があったことを忘れたくらい時間が経ってしまって、そう言うしかないのがもどかしいけれど、詩集を開いてみると、やはりこの訳で読みたかったのだと思わせてくれる。今回手に取ったこの本は1956年のユリイカに所収されたものはじめ、以前の出版物からの収録を含めた文庫化で、実質復刻版といってもいい。

以前、「蛙たち」というシャンソニエ(シャンソンを聴くお店)で働いていた時に、日に一度は聴いたように思う「枯葉」の作詞家としてプレヴェールを知った。自分で歌う歌を探す内、作曲家ヨセフ・コスマとの組み合わせのこのあまりにも有名な曲に隠れた優れた曲がたくさんあることを知り、またその多くが彼の代表的な詩集「ことば(Paroles)」に収められていることも知った。フランス語詩を良く感じ取れるほど僕の語学力はないのだけれど、コスマがプレヴェールのParolesに与えた旋律が届けてくれる香りが心地よく、僕がシャンソニエに思ったより長居した一つの理由だったと思う。

プレヴェールの詩は、というより訳者の伝える言葉が、友人と話した他愛のない話の断片のようでもあり、自分がつぶやいた独り言を誰かに書き留められたかのような気分もするし、街の中のそこらから聞こえてきた言葉のコラージュのようでもあり、ウジェーヌ・アジェの写真の中に飛び込んだようでも、ロベール・ドアノーの撮った街でもあるような、ブラッサイの光景を脳に直接照射したようにも思える孤独と優しさと愛にあふれた音として届けられる。

僕の好きな詩を一篇

夜のパリ

三本のマッチ 一本ずつ擦る 夜の中で
はじめは君の顔を隈なく見るため
つぎはきみの目をみるため
最後はきみのくちびるをみるため
残りのくらやみは今のすべてを想い出すため
きみを抱きしめながら。
(「ことば」より96頁)
Paris at night

Trois allumettes une à une allumées dans la nuit
La première pour voir ton visage tout entier
La seconde pour voir tes yeux
La dernière pour voir ta bouche
Et l’obscurité tout entiere pour me rappeler tout cela
En te serrant dans me bras.
(「フランス名詩選」より97 351頁)

これはアニメーション映画監督高畑勲が全訳した「ことばたち」の解説注釈本表紙

10月も半ばを迎え

今年のお天気はなかなか夏を忘れられないらしく、東京は今日だって29度ほどあったそうだが、週末から忘れていたように季節が進み、寒さを感じるらしい。それは明日になってみないとわからないが、今夜の風はそのまま当たるにはずいぶんと冷たい。

現在参加している舞台は6回の公演のうち4公演を終え、長い長い音楽の旅もあと2回なのである。日本国内のオペラ公演では同じキャストで6回というのはまぁまぁ多い公演だと思うが、お芝居やミュージカルなどはとても長い期間公演をしていて、6回なんてなんぼのもんということになろうが、まぁ、舞台で巻き起こるものは同じな様でいて、全く新しい瞬間の繋がりであるから、回数や年数ではない、その1回なのだ。
舞台に足をかける緊張というのは新しいものにしていきたいと思う。

出番がない場面を舞台袖から観るのが昔から好きで、今回も舞台スタッフの方々に邪魔にならないようにこそこそと観ている。
長大な作品の中で出番はそれほど長くはないのと、待ち焦がれた歌手がすぐ傍で歌うというのにじっとしていられないという高揚と好奇心も多くある。これはひいきであるから仕方ないと思っていただきたいのだが、三幕、ステファン・グールドが舞台上で息を引き取るまで(ここは合唱の中から25人ほど出演して僕の出番ではない)物語の山場としても観ておきたい。。。

舞台袖というのは不思議な視点を持てる場所で、見る角度も客席とは違うし、もちろん舞台に立つ景色とも違う。
出来れば舞台に立って見る姿というのが歌手、役者として王道の視点だけれど、その視点だからこそ得られるもの、楽しみというのはやはりあると思っている。

そうこうしているうちにまだまだと思っていたコンサートだったり、オーディションだったり、いろいろ準備が始まり、舞台の感動に酔うのと違う人間がいなくてはならない。それらがちょっと慌ただしく感じるのは、随分暑さが長引いて季節の時差ボケなんだろうか。
来週の高松行きも楽しみだし(同じくらい緊張もしているけど)、2月に企画しているコンサートの詳細もブログで書けるくらいにしないと!

ひとつ季節が進むと、また違って景色を見つめられる。
その季節を待ちわびて今を過ごしていこう。