藤田嗣治(1886〜1968)の久しぶりとなる大きな回顧展が東京都美術館で開催されていた。東京はすでに終了したが、作品は10月19日から12月16日まで京都国立近代美術館に移り、観ることができる。
今年は没後50年ということで、かなりまとまった数の作品が展示されていて、中には日本で初めて観られるものもあった。僕が見に行った日は夜間開館だったが、20時の閉館ギリギリまでたくさんの人が鑑賞していた。どこかのニュースで読んだが期間中30万人が美術館を訪れたという。”Foujita”の認知度、人気が共に高いことを改めて感じた。
2005年にあった東京国立近代美術館での展示もとても素晴らしかったが、あの時は美術館の持つ藤田が描いた”作戦記録画”と呼ばれる第二次世界対戦時の日本軍の様子を描いたものにまつわる物語と、解放された”君代コレクション”が主軸となっていたように覚えている。第一次大戦、第二次大戦を画家として生き抜き、時代に翻弄され孤独を抱えた、そして信念を持ち続けた芸術家を猛々しく魅せた。
今回は比較的穏やかでかなり客観的に、静かな語り口で藤田の作風の変化、時代性というか、彼の先進性を一枚一枚ゆっくりと、作品とともに歩くというふうに感じられた。
同じ画家の、多くの作品が重なっているだろう展示なのにも関わらず、見せ方でずいぶん違うものなのだなと思わせた。こういった事はやはり企画の効果なのだろう。ともすれば私はこう思う、という学芸員(といっていいのかな?)の主張が強ずぎる展覧会もあり、昔は絵画そのものを楽しませて欲しいと思っていたけれど、作家、作品に魅せられた同じ人間としてそれもまた楽しめるようになってきた。
人にはそれぞれ「お気に入り」の芸術家がいるだろう。僕にとって藤田嗣治(Leonard Foujita)はまさしくそうで、音楽において自分が初めてテーマにしたイタリアにおける近代の作曲家ピッツェッティ(Ildebrando Pizzetti1880〜1968)はまさしく同じ時代を生きた人であるのもある。
僕は藤田の絵に少しの寂しさを感じる。最初期の肖像画にも、デッサンにも、どんなに大きい華やかな”乳白色”の絵画からも少しの寂しさを感じる。
彼がパリを初めて訪れた時、モンパルナスでの明日をも知れぬ生活、仲間との別れ、友人の死、画家としての成功、日本との決別。芸術家として絶えなく作品を残したのは藤田の強さ故だと思っているが、パリでの異邦人として対峙した現実と過ぎて行く時間とが磨耗した後に残った削りかすの様に寂しさが残されている。
展示の後は図録や関連商品の大行列に並ぶこととなったが、これもまた一興だろう。
京都の展示に行かれるのであれば図録は是非ご覧いただきたい。静かな展示の裏にある情熱が、図録の中に込められていて、読み物も大変な充実ぶりだ。企画者の気概、骨太さを感じる。展覧会の後の楽しみを長く、穏やかに持つことができると思う。