たとえば、早春、イタリアの野に咲く薄黄色の花、primulaプリムラは、語源がラテン語であるというような面倒なことは、誰も覚えていないくらい日常的な名刺だけれど、たぶん、もとはprima(初めの)の縮小形だったのではないか、ちいさな、いとしい、春のはじまり。この花をなだらかな三月の丘の、陽あたりのいい斜面にみつけて、最初にこう呼んだ人の驚きや感動が、言葉の構造そのものに組み込まれているのがなにかうれしい。(須田敦子:時のかけらたち、より)
もちろんプリムラの季節はとっくに過ぎていて、すっかり緑で溢れかえった中を駆け抜ける風と、まぶし過ぎる陽に、これから訪れる初夏の匂いを感じる。
須田敦子との出会いは、僕がたまに寄る本屋の、写真関係の洋書の棚からレジへ進む最初の角に作られた、これまでの翻訳本、著作が平積みになっている所だった。実際はその本の角を避けようとして足が止まったからだ。
冒頭の文章を選んだのは特段意味なく、読み終わってすぐの気持ちの良いところだった。どこからも人間の生活と、言葉と、景色とが柔らかく、愛しさを持って書かれていて、僕もそこに立って同じように優しい眼差しでそれらを見つめているように思える。
イタリア文学の翻訳者として長くあり、随筆は没前の10年ほどだという。”書く決意を持って書かれた量である”と誰かが評してたのを読んだが、”決意”を感じるほど切迫感は感じることはないものの、そこにあるシンプルで淀みのない文章はいつ読んでも心に近く感じる。
取り組んでいた音楽祭の仕事も終わり、指導している合唱団の大事な本番も終え、次々に向かう大事な本番の準備に取り掛かっている。仕事での大きな達成感や感動を是非言葉にしたいところなのだけれど、なかなかうまく言葉になることがなく、また例のごとく書きかけて”下書き”フォルダーにしまっている。
何にせよ、書いてなんぼか。