ひとつひとつ

先週末、取手混声合唱団とのモーツァルト《レクイエム》を終えた。
なんだかずっと緊張していて、舞台に立つとGPでも体が固くなってしまって自分の体でないみたい。
隣に座る大学の同期であるバスのソリストからアドバイスを受けながら、もしくは緊張している僕のモノマネをされながら、なんとか本番は歌い終えることが出来た。

合唱とオーケストラの響きの中にどっぷり浸かりながら、どうにかうまく歌うことを頭で巡らせていたが、
そうか僕はこの音楽の一つのピースなんだ、と緊張のあまり忘れていた事が目の前を明るくしてくれた。
緊張とは厄介なものだけれども、与えてくれるものあるんだな。

自分の心が開かれればたくさんのものが聴こえてくるもので、
オーケストラの方々は合唱団の声の動きをこちらに耳が見えるほどよく聴いてらっしゃるし、
指揮の山田先生の柔らかい面持ちだけでなく、しっかりと音楽をつかむ呼吸を与えてくれているし、
優しいソリスト達はアンサンブルの道筋をぎこちなくしている僕と一緒に歩いてくれたし、
何より、演奏の大方を占める合唱が美しい音楽の形を作っていた演奏であったと感じた。

音楽は聴こえるものでもあるし、見えるものでもあると思っているのだが
美しい音楽の形とは、心が向かう姿のことをいうのだろうな。
この話はおいおい。

ひとつ大事な演奏が終わり、そしてまたひとつに向けて進もうと思う。
ようこそ、6月。

ただあこがれにみちびかれて

僕は今一冊の本を目の前にしている。

佐々木成子著「ただあこがれにみちびかれて ある歌い手 60年の歩み」(1996年刊)

お名前を知ったのも、お言葉を交わすようになったのもこの5、6年であるので
その頃の明るい良く通るお声で、きれぎれに響く気持ちの良い笑い声を耳に思い出しながら読んでいる。
先生は5月15日、97歳でお亡くなりになり、5月にしてはとても暑いこの日、ご葬儀であった。

佐々木成子(ささきさだこ)先生は、東京音楽学校(現東京藝術大学音楽学部)を卒業後、日本交響楽団(現NHK交響楽団)など多くの演奏会でアルト・ソロとして活躍され、終戦後1955年に渡欧。1957年の帰国までに、ウィーン交響楽団との録音や、作曲家マルクスの生誕75周年コンサートにウィーン国立歌劇場歌手とともに出演するなど、多くの足跡を残された。
演奏活動と共に、ザルツブルグ国際モーツァルテウム夏季音楽アカデミーなど海外の講習会、東京藝術大学、武蔵野音楽大学、京都市立芸術大学、名古屋音楽大学などで後進の指導にあたられた。1965年には日本人で初めてオーストリア共和国から芸術科学名誉十字勲章を授与されている。

先生のご活躍、ご功績は書きつくせないものだし、それをする資格は僕にはない。
なぜなら僕が先生に会う時は、もう15年ほど先生にお世話になっている妻について行っている時で、
先生がお住まいになっているホームの娯楽室で開かれる門下生によるHaus Konzertと、その後に開かれるお食事会がほとんどであった。
先生はお相撲が大好きで、食事会の前はお部屋に戻ってお気に入りの力士の取り組みをご覧になってからにこやかに皆の前に戻ってきたこと、先生や出演者、門下生の方々に結婚のお祝いをしていただいたことを思い出す。

最寄駅からお住まいでありお別れの会の会場であるホームまで妻と歩いた。
もうこの道を歩く機会はそんなに多くはないのだろうかと思いながら、そんなことを口にすることはなく、暑さがいつもの道のりをとても遠く感じさせるようだった。
途中、京都での門下生の方とずいぶん久しぶりにお会いして、こんなことでもないと会わないなんていやだね、なんてお話を門下生同士交わしていた。

ご葬儀の場所はやはり悲しみがいっぱいで、佐々木先生のリサイタルの録音が献花を待つ控室に時折聴こえてくるとその歌声に各々が思いを巡らせているのを感じた。直接教えを受けたことがない僕は、ただその思い馳せる人の視線をたどることで涙の出口をそらすことくらいかできなかった。
僕の隣に座る妻の横には、やはり佐々木門下である日本で屈指のバリトン歌手がいらっしゃった。妻は通っていた大学でお世話になっていたこともあり、出演されたオペラの舞台を先生がとても自慢されてましたとお伝えした。リートのように歌っていたわ、と。
佐々木先生はオペラ嫌いやったからなぁ・・・と照れながら、寂しそうにも見える笑みでおっしゃっていた。
いざ、お別れに棺に花を飾る時もなかなか立てないでいて、さすがにその姿には僕まで泣いてしまうところだった。

前の日の晩、「明日が来なければいいのに」と妻は言った。
明日がある、明けない夜はない、なんて明日に向ける希望は数多あれど、明日が来なければいいのに、という願いは叶わないのは何故だろう。
望まない明日が来なくて、また違う人生がどこからか始まるなんていとうのはやはりちょっと虫のいい話なのだろう。

喪主、大ベテラン歌手と、もっとお会いできたらよい京都の方と、すばらしいピアニストと、佐々木先生も太鼓判を押す素敵な門下生の夫君と、たまたま近くに立っていた僕と6人で出棺のお手伝いをさせていただいた。
僅かな道のりを先生と共にいることが出来、最後にご一緒できて本当に光栄だと感じている。

帰りに参列のお礼の一つとしていただいた冒頭の本を少し読んだ。
戦時中から終戦にかけてのお話が胸を打つ。

このところで思い出すのは、妙に静かで平和な出来事である。
ある日のこと、私は庭先に持ち出した七輪に火を燃やし、
一緒に住んでいた生徒さんの作った食物を暖めていた。
団扇で七輪に風を送りながら鼻歌を歌う私自身の姿とその歌を、
私は今もはっきりと思い出すことができる。
リヒャルト・シュトラウスの「明日」という曲は、こう始まるのである。

  かくて、太陽は明日もまた輝く    (本文p26より)

Rondine al nido

今年は桜をずいぶん長く楽しめたこともあって
4月に入っても肌寒い日があったように思う。
太陽の光が桜を散らすようにして暖かくなり
青い空と同じように晴れ晴れしく思っていると
クィルルル
小さなのどを鳴らして気持ちよく空を駆け抜けたのは燕だった。
ずいぶん早い気がしたけれど
清々しいその滑空を見るのはとても気持ちが良かった。

5月に入って、季節を間違えた暑さで燕の姿が消えた。
こんなこともあるのか、と寂しく思っていたのだけれど
このところの‟例年並み”の気温で再び燕の声を聴いた。
あの鳴き声は、まだ向こうは涼しかったからさ、なんて風に聞こえてくる。

燕(rondine)を伊和辞典で引くとgiacca a coda di rondine(燕尾服)
nido di rondine(燕の巣)が出てくるしuna rondine no fa primavera
(燕が一羽来たからといって春になったとは言えない;一事をもって早合点するな)
ということわざまで出てくる。
春の訪れのシンボルとして扱われ、東京と比べると1カ月半ほど早いのか
彼らがやってくるのは3月の末くらいなのだそうだ。
なるほど、忘れな草《Non ti scordar di me》で出てくる歌詞では
「燕がいなくなったのに太陽がない僕の故郷は寒い」
(太陽=恋人、愛する人がいなくて僕はとてもつらい)と言っている。

再びあの小さなかわいらしい鳴き声を聞いて、作っておいた巣にまた帰ってきたのか、
と思っていたら、ふとある曲が頭の中に流れた。
Rondine al nido「巣に戻る燕」
Vincenzo de Crescenzoが作曲して、たくさんの人が歌っている曲であるし、
僕もいつか歌ってみたな、と思っていて叶えられないでいる歌の一つだ。
これもまた寂しい曲で、
「燕は古い塔の下にアーモンドの花を開かせるために山や海を越えて帰ってくるのに
あなたは帰ってこない」
と嘆くのだ。
爽やかな、夏の始まりの少し前、きらきらと新しい緑があふれるこの時期に
まぁそんな曲ばっかりで、僕はイタリアの歌が大好きなのである。

うったて

この言葉を聞いて違和感のない人に僕は親近感を感じずにはいられない。

今日は、昨年末から指導している和光混声合唱団の練習日でした。
各フレーズの冒頭の和音、音色など、結構しっかり練習をし、ピアノ独奏部から自然な、そして的確な演奏を目指しました。
ピアニストは大学時代の同級生で、その縁もあってこの団のヴォイストレーニング、指揮を任されることになったのですが、練習が終わるなりピアニストから
「うったて、って解る?」
久しぶりに聞いたが、特に違和感は感じず唐突さに驚いたくらいで、加えて
「これって方言なんだって!」
なるほど、どうりで最近聞かないわけだ。

『うったて』とは岡山県、香川県の一部で使われる言葉で、辞書の様に表現するならば
書道での起筆、それに取り組む一連の集中した心持ち。また物事に取り組む最初の様(さま)
というところであろうか。

ピアニストは岡山県出身で、僕は小中高のほとんどを香川県で過ごし、父は岡山の出なので、うったてには違和感がないわけだ。
習字の時間の、墨を含んだ筆が半紙にひたとつき、緊張した手にその感触が伝わる体感、映像、匂いを僕はその言葉からは感じるのである。

今日の練習は、まさしく『うったて』を取り上げた練習だったわけである!

『うったて』に限らず、ある地方でしか使われないが置き換えられない、伝えきれない生きている言葉は全国にたくさんあるのだろう。

「翻訳できない世界のことば
こんな本が話題になったが、世界に目を向けたらそれはもう数えるのが無駄なほどであろう。
そもそも言葉が違えば、文化が違えば、一単語=一単語という比重ではなく、新しく知るその言葉が持つ歴史を知るわけで、
言葉のある音楽をする者としては、謙虚さをモットーとする他ない。

週末に向けて控えている演奏会の事をなんとかしてホームページに載せたいのになぁ。

初投稿、初仕事

某音楽協会の会員向けのワークショップをしてきました。
このワークショップは「リズム感」「声」「語り」と3回にわかれており、僕は「声」を担当させていただきました。
依頼を受けてから声の成り立ちや、仕組みをもう一度考え、それをどうやって伝えたらいいのか悩みました。

合唱団などの発声指導は経験があるのですが、ワークショップという形は初めてで、その事を依頼主である主催の方にお伝えしたところ、
宮本さんらしいやり方でなさってください、とのこと。
話したいことは箇条書きで出しておき、その都度受講者の方々と会話をして進めることにしました。
受講者にはクラシック、ポップス問わず歌を楽しんでいる方の他に、役者として舞台活動をされている方もいらっしゃったので、
話をしていく中で考えていなかったような疑問、質問もあり、一方的に話だけで進めていくより今日取ったやり方で良かったのかもしれないな、と今になって胸を撫で下ろしています。

話をする中で、自分自身が考えていることに気付かされることもあり不思議な感覚もありました。
またこのような機会が与えられたら、いろんなことを感じていただけるように自分の感性を磨いておかなくては!

ということで演奏活動のほかにも、ワークショップ、指導なども受け付けております。