千穐楽を迎えた二期会公演プッチーニ《三部作Il Trittico》では、演目ごとに息を飲む音や、涙を拭う音、また心からの楽しみが劇場に漏れ聴こえることが度々あった。舞台上に散りばめられた様々なモチーフを観衆が各々の身体に取り入れた事による現実的な反射だったのだと思う。
もう10年以上前に、某所で《三部作》の上演が企画され、それに伴い演出家アントネットロ・マダウ・ディアツAntonello Madau-Diaz氏によるワークショップがあった。
受講生に対して、「麻袋に入った重い荷物はどうやって運びますか?この椅子がその荷物だと思って持ってください。」との問いに、それぞれが思いつくままに椅子を持った。抱える様に持つ人、肩に抱える人、演出家から「10キロくらいまでならこれで持てますね。」「明日この荷物を持たなくていいのならこれでもいいね。」と不正解とは言わないけれど、僕達に”重い荷物”について考えさせた。伝統的な、重労働を課せられる労働者が持つ”重い荷物”の運び方は、、、と彼が見せた1つの正解は、椅子の背を持ち、座面とは反対側に背中を入れ肩と背中で荷物を背負う形だった。
これが考えられる1つの”realismo(現実的に見る事)”なのだ、と演出家は言った。《外套Il tabarro》に登場するほぼすべての登場人物にかかる、物語に覆う大きな陰は作品全体を支配していて 抑圧された、もう抜け出せないかもしれない生活のごく薄い表皮を、僕たちは背負うという型で感じた。
残念ながらワークショップはこの一度きりで、しかもその《三部作》企画はいつかやりたい、という希望を残しながら頓挫してしまった。だいぶ昔のことなので、こんなことがあった位のことは覚えていたが、先日のオペラを観ていてふとRealismoという言葉と共に甦った。
今回、1つの言葉にまつわる自分の物語が甦った事はとても不思議だった。これも僕にとっての”現実的な反射”だったのかもしれない。