然として

《オランダ人》で舞台に立っていたブリン・ターフェルBryn Terfelやペーター・ザイフェルトPeter Seiffertの雄姿を見られる機会などそうあることではないから、ホールでのリハーサルや本番で自分の出番がない時は舞台袖まで行って、舞台裏まで響くその声だけを聴きに行ったり、袖口から見える横顔だけでもと隙間から覗く様に見たりしていた。

コンサートの1時間前にはまだ楽屋口でサインに応じていた彼らは、一歩舞台に出て、または一言歌い出すその瞬間には、もう自分の役柄としてそこで立っていて、僕たちもそうやって舞台にいるつもりでも、さっき楽屋から舞台までの間に「ウェールズ最高!」と言っていた人との差はとんでもない。もちろんザイフェルトがエリクErik役を何百回やっていることを知っていても、目の前では、2幕の登場や、3幕のバラードは常に新しく、作り込まれていない新鮮な言葉を歌っている様に感じられる。言葉の使い方が正しいかどうかわからないが、そのままである、という意味でオランダ人然として、エリク然としていた。

然(ゼン)という言葉は「しかり。そのとおり。そのまま。」「状態を表す語を作る助字」と辞書にはあり、形容詞に付けたり、付けることでその後を形容させる。音楽家は、いわゆるクラシックにおいては楽譜の再現、表現が果てしない目標なのであるが、その◯◯然でとなるのは、舞台の成功以上の価値の高いものだと僕は思っている。

オペラや歌曲ならば、書かれている言語に支配されるのであろうが、必ずしも母国語だから、とか流暢に話せるからとかでその自然な、まるで景色のようにいることが成立することはないということは知っている。外国人だから、とか有名人だからそうであるわけでも無い。(もちろんそれは個人的な好き嫌いということを完全では無いけれど除いて)

何百回と演じながらもその一瞬をどれだけ役に、その音楽に向き合ったかという結果、と随分簡単に言ってしまうが、そんな音楽家として純粋な事なんだろうな。漠然とした所にしか僕の考えは至らないが、◯◯然とする、いや、なるのか、の方が「人」としても自然でいられると思わせてくれる、温かい人間性を彼らは持っている。そうありたいと思わせてくれるし、そんな所に果てしない憧れを持つ。

エリクを歌ったペーター・ザイフェルトとセルフィー!

東京・春・音楽祭2019

東京・春・音楽祭は、上野にある東京文化会館を中心として国内外の演奏家が魅力的なプログラムで数多くのコンサートを開催している。2005年の「東京のオペラの森」から数えて今年で15回目、「東京・春・音楽祭」と大きな題名を掲げてから10回目となる。認知度も高くなり、演奏会の数、プログラムの多様性は文字通りといっても良い、東京の春に音楽で華を添えている 。

15回の記念すべき回となる今年の音楽祭は14日のシェーンベルク作曲の《グレの歌》によって閉幕した。この超大編成の演奏会には参加できなかったが、最終のリハーサルを聴くことができ、ソリスト、オーケストラ、合唱とすべてのパートが“音楽祭”的布陣で、きっと本番も素晴らしい演奏に違いないという確かなリハーサルだった。当日のコンサートを聴くことができた人はきっと幸せだっただろうし、演奏に携わった人達も音楽家として幸せな日だっただろうと、うらやましく思う。

僕は《さまよえるオランダ人Die fliegende holländer》(4/5,7公演)で東京オペラシンガーズの一員として参加した。NHK交響楽団がワーグナーを演奏するシリーズの10回目となるこの作品は、ダーヴィット・アフカムDavid Afkham指揮、ゲストコンサートマスター、ライナー・キュッヒルRainer Küchlを中心としたオーケストラの確かな演奏に、ブリン・ターフェルBryn Terfel、リカルダ・メルベートRicarda Merbeth、ペーター・ザイフェルトPeter Seiffertといったスーパースターを迎えたことで、記憶に残る素晴らしい公演となった。それを証明するのは終演後の客席の反応で、2公演とも熱狂的に、1階席はもとより、上の階もほとんどが立ち上がっていた様に舞台側からは見えたし、オーケストラや合唱が舞台から降りた後でも拍手が鳴りやまず、指揮者、キャストが再びカーテンコール?に応じていた。この盛り上がり方は近年の春祭ワーグナー・シリーズでは記憶にない。素晴らしい演奏だったことは間違いはない(はず)が、この音楽祭が人の心に根付いている証なのではないだろうか。続くことで聴衆の期待度は増すし、演奏の充実というのもそれに応じるだろうし、その好意的な循環がこの東京で作られていっているというのは15回の内10年は何かの公演に携わった者の実感としてある。合唱のいちメンバーとして今年も関わることができて、本当に幸せだったと思う。

写真は東京・春音楽祭Facebookより

上海へ再び

3月15日から18日まで東京オペラシンガーズの一員として中国・上海へ訪れた。作秋に続いて2回目となる中国での演奏は深く記憶に残るものになった。

前回は上海国際芸術祭の中のプログラムとして、民間交流の1つとしての演奏だったが、今回は上海交響楽団の招聘で、陳其鋼《江城子》,ベートーヴェン《交響曲第九番》を演奏した。指揮は音楽監督である余隆。

マエストロは2017年に東京フィルハーモニー管弦楽団と《第九》を演奏していて、同僚の中では彼の指揮で歌った人もいたので、最初の音楽稽古の前のあいさも非常に親近感のある感じで話してくれた。

今回の演奏では、Qigang Chen作曲の江城子Jiang Tcheng Tseと出会えたことがとても幸せだった。昨年の3月に初演されたばかりの曲で、亡くなった妻への思いが叙情の極みである美しい旋律と共に語られる。中国語の歌詞があるので、一応ローマ字の発音表記はあるものの、大多数にとって不慣れな言語に、声楽家としてご高名なK先生が発音指導についてくださり、贅沢な準備をして上海へ向かった。

上海でも、作曲者がリハーサルに同席して、これもとても贅沢な事と思うけれど、こう歌って欲しいという箇所を実際に何箇所か歌ってくださった。よく響く美しい声に聴き惚れるほどで、演奏するための想像力が万倍にもなる程だった。楽譜にはソプラノ・ソロとあったが、それは中国の、確立されたジャンルとしての民謡歌手というのがあるらしく、リハーサルの第一声で魅了されてしまった。必要なすべてのものがそこに存在していて、僕たちはそこに溶け込んでいくのだ、という世界を見せてくれた。

僕たちは日本で準備していた時にはたどり着けなかった表現がここにはあって、言葉はもちろん、作曲者の息、感情の発露だったりというのは新鮮で、明確で、楽譜に書いてあるアクセント1つとっても正しさを持って演奏することは貴重な経験だった。

“音楽に国境はない”とよく耳にするけれど、国境というか、違いは現実にはあって、1つの音に対してそれを乗り越えていくという、感じ合うというのは言葉を解しない理解なのだろう、と思い巡らせる。

作曲者のQigang Chenのサインとプログラム

陈其钢Qigang Chen

《江城子》Jiang Tcheng Tse, for Chinese Soprano, Choir and Orchestra

唐漩璇 Tang Xuanxuan


Ludwig van Beethoven

交響曲第九番,作品125「合唱」

Symphony No.9 in D minor, Op.125 “Choral”

中村惠理

朱慧玲

宫里直樹

沈洋

东京歌剧院 Tokyo Opera Singers

上海交响乐团 Shanghai Symphony Orchestra

さらば、愛しさよ

年が明けてだったか、浅草にある老舗の洋菓子と喫茶の店、アンヂェラスが今年の3月17日に閉店すると言う知らせを聞いて驚いた。

初めて訪れたのに感じる懐かしさと、アンヂェラスというお店の名前がついた、黒または白のチョコレートをまとったバタークリームのケーキや、今風の、激しく飾り立てた洋菓子とは別世界の、一目で幼少の頃の温かい物語を思い立たせる風貌のケーキが列ぶショーケースは永遠だと思っていた。僕は古い客ではないけれど、ただ何の根拠もなしに信じていた。

昭和21年創業、というのだから戦後間も無く、今からは想像し難い世界だっただろう。その最中に、太い木骨組と白壁でまるで飾られたような外観と、贅沢に吹き抜けを持つ3階の建物は、だからこそなのか、それ自身の老朽化というのが閉店の理由だそうだ。

閉店の知らせを知って急いで訪れたのは3月初旬で、昼を迎えようとする、ケーキや喫茶を楽しむにはまだ早い時でさえ既に長蛇の列だった。平日にも関わらず、お店をぐるりと囲むように並び、30分ほど並んだだろうか、それでも今日は良い方だと整列を呼びかける係りの人は言っていた。

お店にはもう限られたケーキしかなかったけれど、僕は大好きなモンブランと、妻は初めて注文するプリン・ア・ラ・モードと、アンヂェラスは追加で注文した。帰りに買って帰る予定だったが、1時ごろだったか、早々売り切れてしまったので贅沢だったかなと思った胸をなでおろした。

僕たちが通い始めた10年ほど前には、やっぱり浅草だよね、と思わせる男性が働いていた。やっぱり、というのは独特な声と姿と表現するには難しい絶妙な接客なのだが、他に伝わらなくてもただそう言っておきたい人だった。

今はその娘さんだと絶対に信じている人が働いていて、常連と思しき人との会話する声が耳に入るや否や、ここで聞く最後の声に、妻は笑みと涙で忙しくなり僕もついでに涙目になった。

職業病なのか、声や音というのは感情と素早く結びついてしまう。いけないね、と2人でまた笑ったり泣いたり繰り返す。店内を眺めたり、写真を撮ったり、もちろんお茶を楽しんでアンヂェラスを満喫したのだが、長くいてしまうとどんどん寂しくなるものだ。

僕にとっては浅草とアンヂェラスは同じ歴史だから、その片方が失くなってしまうというのはもう片方の存在も無くなるようなもので、早く僕の浅草の片割れを見つけなくてはいけない。

メルヒェンといいたい字体と外観

2階階段の装飾。凝っていて今では珍しい

3階の装飾一部

アンヂェラス黒