20日の初日は、前日の発表の通りオネーギン役のレヴァント・バキルチLevent Bakirciから、同役のカヴァーを務めていた大西宇宙(おおにしたかおき)が歌い、演じた。彼は、公開GPでも本役の体調不良により舞台に立っているし、シカゴでの同じプロダクションでも本公演の三幕途中から歌っているので、危なげなく、と言っては失礼だろうか、存分に彼の魅力を聴衆は堪能したのではないか。合唱団は誰が舞台に立っていようと舞台では同じように振る舞うのが務めだけれど、僕としては、大西君の歌うオネーギンが、いや今回ばかりは彼がこれからどうなっていくのか希望めいた視線がまつげの端からあっても許してはくれまいか。
三幕二場でタチアーナとオネーギンの重唱になると、楽屋にはカーテンコールのためのアナウンスがかかる。出演者は全員方々の袖に控えていて幕切れを待っている。
タチアーナ役のアンナ・ネチャーエヴァ Anna Nechaevaが、オネーギンに永遠の別れを告げ舞台袖へと引き上げる。いつものリハーサルであれば、チェックに入ったり、カーテンコール位置に向かうが、初日、彼女は立ち止まった。舞台袖の踊り場で、胸に手を当てて立ち止まり、オネーギンの独白を、胸の内の叫びを、まるで現実の、扉の向こうで自らの言葉の責苦と共にあるように、タチアーナは感じていた。O,жалкий жребий мои!(おお、私の哀れな運命よ!)というオネーギンの言葉に胸を締めつけられている。何ということだろうか。音楽のすべてが鳴り終わるまで、タチアーナがそこにいたのだ。終演へと向かう安堵の気持ちなど起こるはずもなく、彼女の姿に息をのんだ。
何度もリハーサルをし、同じように終幕を迎え、そして本番を迎えたのだが、初めてこのオペラを観た時へ、僕の心は新鮮さを持って立ち戻った。
どれだけその新鮮さを持って舞台ができるのか、心を新たにまた二日目を迎えようと思う。
8月ジャーナリズムと呼ばれても
松本での稽古を一旦抜け、東京からの同僚、ソリスト、バルセロナ交響楽団と合流して8/1に広島でベートーベンの交響曲《第九》を演奏した。7月にも同じ演目で演奏したが、2回目ということもあって、とは説明できないほど全く別の、違う世界への扉を皆で開いたような感覚のする演奏になった。あの時よりも良いとか悪いとか、演奏はそうであるものではないのだからもっとうまく説明したいのだけど。
この日は夕方からのリハーサルだったので、それまでの時間に広島平和記念資料館へ行く。改修工事と展示整備で2年間ぶりに開館された本館を含めゆっくりと時間をかけて回ることができた。すぐそばにある広場では、8月6日の、原爆が広島に落とされた日にある平和記念式典の準備が着々と進められており、白いテントが緑の芝生に作るくっきりとした陰を作っていた。
広島の宿泊先の部屋のドアーに掛けてくれた新聞は中国新聞だった。恥ずかしい話、すっかり新聞を読む習慣を無くしているが、こういう時は読んでおいても良いだろうと起きたままの布団の上で紙面を開いた。8月になったばかりの日だ。
その中の記事をひとつとっておいたので載せておく。ひろしま美術館での《かこさとし展》についても興味深く読んだが、冒頭部分が最後まで尾を引いた
“そんな夏だからこそ、戦争回避へ何をすべきか、しっかり考えたい。8月ジャーナリズムと揶揄されようとも。”
戦争の足音がする、と言われて何年経つだろう。それは戦争を経験した世代が、当時体験した世相の変化というものを今の時代に感じていたからだろう。かの惨劇への第一歩はあの時である、とは誰も言えない。物事は常に連続していて、映画のフィルムのコマが落ちては成り立たない、と例えて良いのだろうか。その連続したコマに、私がいた、のを後になって私が見つけた時になんと思うのだろう。そう考えるとただ恐ろしくて震える。
しっかりと立っていようと思う。
手を繋ぐことができるほどの場所にいる人に優しさと愛の言葉を持って。
セイジ・オザワ・松本フェスティバル2019
7月の終わりより長野県松本市に滞在し、セイジ・オザワ・松本フェスティバル(以下OMF)のプログラムの一つ、チャイコフスキー《エフゲニー・オネーギン》に取り組んでいる。途中、広島での演奏のため松本を一旦離れたが、ほぼ2週間の滞在が過ぎ、オペラの開幕へと稽古は進んでいる。
サイトウキネンフェスティバル松本からOMFへと音楽祭は新しく生まれ変わり今年で5回目を迎える。オペラは第1回のベルリオーズ《ベアトリスとベネディクト》以来で、会場であるまつもと市民芸術館に通い、舞台裏が、楽屋が本番に向けて慌ただしくなっていく様を見ると気持ちが高ぶる。舞台ではいつもこころがける事ではあるが、怪我なく、事故なく、健康に舞台を努めたい。
前身の音楽祭を含めて、初めて松本でオペラの仕事をしたのは、同じくチャイコフスキーのオペラ《スペードの女王》で、なんと2007年。もう12年前なのか!と驚いてしまうが、同じくロシア語に四苦八苦しながら稽古をしたこともあり、街を歩く度に思い出すことは多い。稽古や本番を通して感じた“美しさ”というのは街の景色と深く結び付くのだろう。
ホテルの窓から見える朝の街の色が日を追って少しずつ変化する。あぁ、ずいぶん長くいるのだな、と思うし、この街にいられるのもあと少しなのか、と寂しい気分にもなるが、良い舞台を観来た人の心に残せるように、しっかりと自分の心に残るように舞台を過ごせたら良い。
街を歩く
人形町界隈を歩いた。
年の初めまで近所にあったパン屋BoulangerieDjangoがこちらの方に引越されたので、久しぶりに食べたくなって(というよりは我慢ならなくなって)足を伸ばしてみた。
とても美味しいパン屋さんなので、地元からなくなってしまった時、僕は随分悲しんだが、新しいお店の明るい雰囲気と、お客さんのパンを見つめる幸せそうな姿を見て胸のすくような思いがした。
大袈裟かな?でもパンは大切なんだよ。
暗くなり始める街を歩く。辺りの小さな間口の料理屋の灯りが残されて、車が走る音も遠くなり、五感のトーンが平坦になっていく。
幅の狭い路の向こう側に、軒先で屈む老夫婦の間から小さく火が立ち上がった。火の先に登る煙が見え香りもやってきた。今日は送り盆だ。
煙は尾を弛ませるように登っていく。僕は煙を遠く感じて、去りながらも見送る。
また違う景色をゆっくり写真を撮って歩きたい。
感謝の日、ムジカノヴァンタノーヴェ終演
6/30、ムジカノヴァンタノーヴェ演奏会を無事に終演した。お足元の悪い中、いらしてくださったお客様、ハクジュホールのスタッフ、コンサートを全面的にサポートしてくださったビーフラット・ミュージックプロデュース様に感謝申し上げます。
自分の演奏をどうこういうよりも先に(他の出演者はもちろんとてもすばらしかった!!)どうしても感謝を伝えなければいけない人がいる。
僕の父が、地元駅で家族とはぐれてしまい、そのまま電車には乗ったのだが、ホールまでの道がわからず、電車の中で知り合った人にホール受付まで送ってもらったというのだ。
父は数年前から高次脳機能障害になり、不慣れな場所に行くのにはかなりストレスがかかる。幸い、コンサートの会場名、開演時間、僕の名前など、必要な情報を手帳に自分で書いていたので、案内してくださった方がそれを頼りに案内してくださったそうだ。開演時間にも間に合い、先に到着していた家族とも休憩時間に会うことができた。(家族は、散々探したが見つからないのでホールに行ってると信じて出発したらしい)
色々な偶然が重なり奇跡のような出来事だが、父を導いてくださった方がいたからこその1日である。
僕たち家族の恩人に電話で連絡がとれ、感謝の言葉以外には何も出てこなかった。お礼を固辞され、その意思を尊重する方が大事と思った。お名前はもちろんここでは出さないが、こんな素晴らしい人のおかげで、僕達は幸せな1日を送ることができた。本当にありがとうございます。