本年もどうぞよろしくだなんて

松が明けて新年のご挨拶というのも随分のんびりしてしまいました。

お節料理も食べたし、七草粥も食べたし、鏡開きもして、小豆粥も食べまして、一年の準備は万端であるのでよく歌いたいと思います。

今年は演奏活動はもちろんのこと、サイトの充実をしていきたいです。ブログを含めたホームページは自分自身を経営すること、という記事を目にしたことが開設のきっかけとなりました。公の場に対する自分というのを考えてみたかったこともあります。形だけでも、と開設をしましたが、なかなか手が届かないところもあり、いろいろできることがあることもわかり、形にしていければと思います。

本日スマートフォンを開けて目に飛び込んできたのが

The time is always right to do what is right.

マーティン・ルーサー・キング牧師の言葉だそうです。意訳になりますが、「正しいことに時を選ぶ必要などない」だそうです。

本年も皆様が佳き音楽と共にありますようにお祈りいたします。

ゆくよ、くるよ

2017年はどんな年だったでしょう?
楽しいこともあったことと思います。
悲しいこともあったかと思います。

僕はあなたの気持ちを推し量れない。
あなたの辛さを受け止められない。
あなたの喜びのすべてをともに喜べるだろうか。

僕は指が触れるまでの距離の幸せしか感じられないけれど
2018年は、そのつながりを多く持てたらいいだろうし
多く持てるように、あなたに、どこかに会いに行けたらいい。

それではまた来る新しい日に。

これは昨日の月だけれど

何日か前、日が暮れていく空にとても薄い月が出ていた。

いつか読んだ(国語の教科書に出ていたんだと思う)芥川龍之介の杜子春の冒頭に出てきた”まるで爪の痕かと思うほどかすかに白く浮んでゐる”というのはこんな月なのかなと思った。

11月は随分長く感じたけれど、12月の今までは瞬きをする度に1日が終わっていったのではないかというほどに感じる。砂時計の流れ落ちる砂は落ち切る際に早くなっている気がするのだけれど実際はどうなのだろう。

昨日はベートーヴェンの交響曲第9番の本番だった。クリストフ・エッシェンバッハ指揮、NHK交響楽団との演奏は僕はあと3回あるので最後まで楽しみたい。最近は「年末は第九」というほどでもなくなった気がするが、やはりいつでも演奏できるのは嬉しいし、こうやって年の瀬(?)に久し振りに仲間と会えるのも重ねて楽しい時となる。

11月にも尾高忠明さんの指揮でN響と「第九」の合唱を演奏した時、ベートーヴェンの音楽に”向き合う”というよりも”問い続ける”という事が新鮮だった。作曲者が音楽に対してあった姿のように、演奏者もその音楽に対して同じ姿であるというのが、ひとつの美しいものであるように思う。

夕刻から空を見上げれば、昨日より幾分月が膨らんで見えるだろう。満ちていく月の姿ではなく、今のその白く浮かぶ月でいることを見られたら、一年分の大きな砂時計の砂の落ちきる事も少しゆっくり感じられるだろうか。

いっしんに

先日、とある方が歌う「冬の旅」を聴きに行った。フランツ・シューベルトがヴィルヘルム・ミュラーの同名の詩集に作曲した24曲からなる連作歌曲集は全部で1時間を超える大作だ。

何回も聴いているはずだが、対訳がないと物語を追えない僕ではあるが、聴き進める内に自分の気持ちと音楽とがすっと重なる時がやってくる。その時に何が見えるのか、というのは心の内が決める様なもので、正しく向かい合えれば音楽を聴くことはまたとない自分自身へのカウンセリングの機会でもあろう。

頭の中には”いっしんに”という言葉の感触が残った。それは「一心」でもあれば「一新」とも取れるし「一身」とかでもあるかもしれない。その語感だけがやってきたので、これは何かに変えずにあえてそのままにしている。

「冬の旅」の情景の隅々をまた再び絵筆で描く様に言葉を歌う”いっしんに”ある姿を見て、あぁ本当にこれが自分に足りていないと膝をつく思いがした。

3月にフランスの曲を中心とした演奏会を開く機会をいただいた。近々お知らせします、というほど遠い話でないので気ばかりがせいてしまう。1人で歌うのは3年ぶりだと思うので良い音楽ができるよう、しっかり準備をしたい。

本当に近々お知らせいたします。

アッシジの丘の上

聖フランチェスコが亡くなったのはね、ここではなくてアッシジの駅の向こう側に見えるサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会なんだよ。と聖堂の前の広場で別れた祭服の男性から教えられた。

目の前の聖堂の下にはフランチェスコが祀られていて、そこへ降りるとさっきまでの光あふれたミサの光景や28面のフレスコ画のある輝かしい空間とは全く違い、粗野で、暗い、重々しい場所だった。祈るための人がひしめき合い、柩の前でひざまずき、頭を付け、泣きじゃくる人もいて、その余りの人間の生々しい感情の前に僕は立ち尽くしてしまった。
ミサの後の穏やかな握手や抱擁も宗教的側面であるし、祈りを捧げる内側の、人間の血液の中を走る細かな物質の中に、この生々しさが含まれているのではないかと思う。

『アッシジの聖フランチェスコ』の2回目のびわ湖公演も無事に終わり、残すは後1公演である。メシアンは鳥類学者と自分を称するほど鳥たちを愛し、また訪れる国々で多くの鳴き声を採譜したという。オペラの冒頭から鳥の鳴き声で幕が開き、第2幕第6景では鳥たちの鳴き声に溢れ、その声の愛の中でフランチェスコは立っている。
あの時、僕はアッシジの丘で鳥の声を聞いた記憶がないのだけれど、オーケストラの音に包まれると聖堂の前の開けた景色から見えたサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会のクーポラと、岩肌の白と木々の緑を感じ、メシアンがオペラの中に見せた景色が多重露光の写真の様になる。
15年前の記憶は実はもう跡形もなくて、ただの僕のこの公演に寄せる空想なのかもしれないと思いつつ、誰もいない、小さな教会に無造作に置いてあった『小鳥に説教をする聖フランチェスコ』のポストカードをアルバムから出した。

願わくばもう一度彼の地に立って、今受けている音をもう一度頭に蘇らせてみたいなとも思っている。