ヴァーグナーの楽しみ

「ヴァーグナーって大事な事をゆっくり、何回も言ってくれるから飽きないんですよ」
と横に座った同僚が楽しそうに話してくれた。

ヴァーグナーにまつわる幾つかのイメージ(それは僕が持っているものでもあるのかも)を簡単に弾きとばす言葉が新鮮だった。

“幾つかのイメージ”のひとつとして、ヴァーグナー作品は“長い”というものだ。
ヴェルディなどのイタリアオペラ作品だって時間としては短いわけではないが、ヴァーグナー作品の特徴として途切れることがない旋律や和声展開で作品が作られていることで、やはり長大なイメージがあるのだろうか(5時間を長いととらえるかはそれぞれとして・・・)

もう一つに、ヴァーグナー音楽が用いられた歴史が大きい。主だって第二次世界大戦の中でのその音楽のあり方が80年近くたった今でも拭えない。ある有名な日本人ヴァイオリニストがテレビ番組で「僕はヴァーグナーが嫌いです。認めない。」とまで言っていたのにびっくりした。好き嫌いを言うのは勝手だけれど、個人が評価を下すことではないだろうに、しかも公共の電波で。。。彼が気に食わなかったのもその歴史であって作品ではなかった。

2017年のバイロイト音楽祭で話題となった《ニュルンベルクのマイスタージンガーDie Meistersinger von Nürnberg》の公演の評を読んだ。

https://mainichi.jp/classic/articles/20170906/org/00m/200/010000d

リンク中の宮嶋氏の言葉を借りると”音楽家としての解放”というのがこの演出の中心であって、そう訴える必要がある空気というのは日本人ヴァイオリニスだけでなく本家にもあるのかもしれない。

大事なのはヴァーグナー自身によって書かれた言葉だ。彼の劇作品は自身の台本で、そして作曲された。登場人物が自身を語り、紡いでいく言葉が音楽を持って一緒に展開していくのがこの作曲家を楽しむ醍醐味なのだろう。

今取り組んでいる《ローエングリンLohengrin》の舞台はいわゆる読み替え演出という、忠実な再現としての演出というより、ある状況に置き換えた演出になるのだけれど、深作健太さんが拾い集めたヴーグナーの言葉から描いた舞台によって新たに作品が”解放”され、観た方々に届くのではないかと思っている。

舞台でその一片を僕も拾っていきたい。

歌曲とオペラ、行ったり来たり

東京の週明けはまた少し冷えるそうだが、立春の今日は春を迎える呼吸が聞こえる暖かさがあった。

ソロのコンサートまでちょうど1ヶ月となり、ピアノとの合わせも回を重ねひとつひとつの曲の色が濃くなってきた。フォーレの歌曲は彼の初期のものを選んだのだが、そのシンプルな美しさにもっと寄り添っていきたい。

その前に本番を迎える、東京二期会公演ヴァーグナー作曲の歌劇『ローエングリンLohengrin』に僕は合唱団の1人として参加している。稽古は佳境をむかえ、指揮者の準メルクル、演出家の深作健太を先頭に21日の初日に向かって走り抜ける。

フランスの作曲家ガブリエル・フォーレ(1845〜1924)は、ヴァーグナーのオペラを観劇しにドイツまで足を伸ばしたという。1879年から3年間、ドイツ各地へ向かい、今僕が取り組んでいる『ローエングリン』も1881年に観劇している。(“フォーレとその歌曲”河本喜介著、音楽之友社参照)

そういった経験がどれほど作品に影響しているかはまた別の話として、フォーレが聴いた音楽を”今”演奏しているという繋がりにとても面白さを感じている。

オペラに浸ると歌曲の中にある心の動きを強く感じるし、歌曲に浸るとオペラの大きな音楽の中に走る無数の血管を感じる。どちらも楽しさがあり難しさもあるのだけれど、歌曲とオペラのその両方を行き来して味わう事はとても幸せな事と思う。

本年もどうぞよろしくだなんて

松が明けて新年のご挨拶というのも随分のんびりしてしまいました。

お節料理も食べたし、七草粥も食べたし、鏡開きもして、小豆粥も食べまして、一年の準備は万端であるのでよく歌いたいと思います。

今年は演奏活動はもちろんのこと、サイトの充実をしていきたいです。ブログを含めたホームページは自分自身を経営すること、という記事を目にしたことが開設のきっかけとなりました。公の場に対する自分というのを考えてみたかったこともあります。形だけでも、と開設をしましたが、なかなか手が届かないところもあり、いろいろできることがあることもわかり、形にしていければと思います。

本日スマートフォンを開けて目に飛び込んできたのが

The time is always right to do what is right.

マーティン・ルーサー・キング牧師の言葉だそうです。意訳になりますが、「正しいことに時を選ぶ必要などない」だそうです。

本年も皆様が佳き音楽と共にありますようにお祈りいたします。

ゆくよ、くるよ

2017年はどんな年だったでしょう?
楽しいこともあったことと思います。
悲しいこともあったかと思います。

僕はあなたの気持ちを推し量れない。
あなたの辛さを受け止められない。
あなたの喜びのすべてをともに喜べるだろうか。

僕は指が触れるまでの距離の幸せしか感じられないけれど
2018年は、そのつながりを多く持てたらいいだろうし
多く持てるように、あなたに、どこかに会いに行けたらいい。

それではまた来る新しい日に。

これは昨日の月だけれど

何日か前、日が暮れていく空にとても薄い月が出ていた。

いつか読んだ(国語の教科書に出ていたんだと思う)芥川龍之介の杜子春の冒頭に出てきた”まるで爪の痕かと思うほどかすかに白く浮んでゐる”というのはこんな月なのかなと思った。

11月は随分長く感じたけれど、12月の今までは瞬きをする度に1日が終わっていったのではないかというほどに感じる。砂時計の流れ落ちる砂は落ち切る際に早くなっている気がするのだけれど実際はどうなのだろう。

昨日はベートーヴェンの交響曲第9番の本番だった。クリストフ・エッシェンバッハ指揮、NHK交響楽団との演奏は僕はあと3回あるので最後まで楽しみたい。最近は「年末は第九」というほどでもなくなった気がするが、やはりいつでも演奏できるのは嬉しいし、こうやって年の瀬(?)に久し振りに仲間と会えるのも重ねて楽しい時となる。

11月にも尾高忠明さんの指揮でN響と「第九」の合唱を演奏した時、ベートーヴェンの音楽に”向き合う”というよりも”問い続ける”という事が新鮮だった。作曲者が音楽に対してあった姿のように、演奏者もその音楽に対して同じ姿であるというのが、ひとつの美しいものであるように思う。

夕刻から空を見上げれば、昨日より幾分月が膨らんで見えるだろう。満ちていく月の姿ではなく、今のその白く浮かぶ月でいることを見られたら、一年分の大きな砂時計の砂の落ちきる事も少しゆっくり感じられるだろうか。