年号が変わると時代が変わるのか、僕にはまだよく整理がつかないけれど、1日1日が良い時間のつながりであれば、それはとても良い事だと思う。それを思い起こすにはちょうど良いのかもしれない。
何かと堅く理屈を言うものの、友人の出演したコンサートに令和の文字が入った飴を送ったり、明日は仕事も入れず家族と過ごそうなど、ちゃっかり時勢の波に乗っているではないか。
以前、知人と「時代の空気」というのを感じづらくなったね、なんて話をしていた。インターネット、スマートフォンに向き合った、内向きの、自分が選んだ情報に囲まれると、そういったものが作られにくいんではないか、という話になった。誰かが声を上げて、ネット上に響いたとしても顔を上げたら何事もなく世の中は動いていて無力感を感じたり。元々は政治的な話でそんな事を話していたのだけれど、時代というのは変わらないのではないか、なんて考えていた。
でも、特にこの最近を見て感じるのは、そんなものは皆が変わると思えば変わるし、感じようと思えば感じるものなのだな、と少し明るく捉えている。時代を感じて、大きく動かすのはやはり人とのつながりで、会話で、それが全体主義でなく、決められたものに流されるものではなく、作り出されて感じ合って生まれたらと思う。
次の時代は、とは言わない。それぞれが今を生きていることを感じ、それを尊重できたらいいのではないだろうか。