何日か前、日が暮れていく空にとても薄い月が出ていた。
いつか読んだ(国語の教科書に出ていたんだと思う)芥川龍之介の杜子春の冒頭に出てきた”まるで爪の痕かと思うほどかすかに白く浮んでゐる”というのはこんな月なのかなと思った。
11月は随分長く感じたけれど、12月の今までは瞬きをする度に1日が終わっていったのではないかというほどに感じる。砂時計の流れ落ちる砂は落ち切る際に早くなっている気がするのだけれど実際はどうなのだろう。
昨日はベートーヴェンの交響曲第9番の本番だった。クリストフ・エッシェンバッハ指揮、NHK交響楽団との演奏は僕はあと3回あるので最後まで楽しみたい。最近は「年末は第九」というほどでもなくなった気がするが、やはりいつでも演奏できるのは嬉しいし、こうやって年の瀬(?)に久し振りに仲間と会えるのも重ねて楽しい時となる。
11月にも尾高忠明さんの指揮でN響と「第九」の合唱を演奏した時、ベートーヴェンの音楽に”向き合う”というよりも”問い続ける”という事が新鮮だった。作曲者が音楽に対してあった姿のように、演奏者もその音楽に対して同じ姿であるというのが、ひとつの美しいものであるように思う。
夕刻から空を見上げれば、昨日より幾分月が膨らんで見えるだろう。満ちていく月の姿ではなく、今のその白く浮かぶ月でいることを見られたら、一年分の大きな砂時計の砂の落ちきる事も少しゆっくり感じられるだろうか。