音を感じることの表現は結構人それぞれで、
純然と耳で聴くとする人は多いだろうし、匂いがするという人もいる。
僕にとって音は見えるものでもある、と感じている。
初めて音を「見た」記憶ははっきり覚えていて、高校生の時にウラディーミル・アシュケナージのピアノリサイタルを聴いた時だ。
当時、音楽科のある学校に通ってはいたものの、ピアノは全くもってひどい出来で、アシュケナージを聴きに行ったのも、音楽オタクの同級生の後をひっついてスーパースターに一目会う、というミーハー気分一心だった。
(自治体の助成もあって、いくら有名な演奏家だとしても1000円か2000円くらいで
聴けたり観られたりしたものだから、ミーハー気分は随分味わった。)
たしかプログラムはモーツァルトで、1500人以上入る県民大ホールの舞台にピアノがひとつ。
ピアニストはひょいひょいと軽快に歩いて鍵盤に触れるまでとても早かったのを覚えている。
弾き始めた途端、きらきらとした音の粒がピアノから沸き立ち、ホール一杯に広がった。
音の珠は大きかったり、小さかったり、柔らかく舞ったり、細かい粒で限りなく吹き出したり様々な表情に見えた「音」は僕をかすめたり、ぶつかったり、包んだりもした。
もうずいぶん前の事なのに、思い出すだけで今もとても幸せな出来事だ。
先日、知り合いの俳優が出演する舞台を観に行った。
既成の台本に新たに付曲した音楽劇ということで、歌であり、台詞でもある言葉に音楽で装飾が施され、素敵な舞台作品だった。
面白いなと思ったのは、俳優から放たれる言葉だ。
俳優は一つの言葉に形や大きさ、その感触、温度、いろいろなものを与えていた。
台詞はもちろん、歌もそうして歌うものだから、とても肉感的なものとして体感することが出来た。
自分が歌を歌う時は、声が、音の高低が、とかいろんなことに囚われてしまいがちで、歌の本来の形を見失ってしまうことが多い気がする。
歌を作るもののひとつひとつに豊かさを与えて歌うことが出来たら、そんな素晴らしいことはないだろうな、と思う。
思うことは山ほどで、なかなか身に付くほどではないが、自分と向き合う時間を出来るだけ増やしたいものだ。